埼玉県立近代美術館で開催されている勅使河原宏展に行ってきた。刺激的だった。
埼玉県立近代美術館では2007年7月14日(土)〜10月8日(月・祝)の日程で「勅使河原宏展−限りなき越境の軌跡」が開催されている (埼玉県立近代美術館ホームページ)。美術館はJR京浜東北線北浦和駅西口から徒歩3分のところにある。勅使河原宏は私の好きな人の1人である (nlog(n): 私の好きな人)。昨日23日にこの展覧会に行ってきた。入場料は900円 (学割720円) だった。
この展覧会は,2001年に74歳で亡くなった勅使河原宏の没後初の回顧展になる。華道の1つの流派である草月流の三代目家元である (勅使河原宏 - Wikipedia)。草月流は,勅使河原宏の誕生した1927年に,父である勅使河原蒼風が創流した。今年は2007年なので,勅使河原宏生誕80周年であり,草月流創流80周年でもある。
展示は,いけばな,竹のインスタレーション,陶芸,絵画,映画の5つのテーマに分類されている。
いけばなの章では,いけばなが展示されているのではなく,写真だった。本人は亡くなっているので当然ではある。さらには展覧会の会期は3か月であり,「なまもの」であるいけばなを展示するには長すぎるということもある。死の直前に作られたいけばなの連作の写真が見られる。斬新な構図に息を呑む。もしかして,全部写真だったりするのか? と一瞬不安になったが大丈夫。次の部屋には作品が並んでいた。
次は竹のインスタレーションの章である。実は,それよりも前,入口では竹の長いトンネルをくぐらせるようになっていて,そこから作品は始まっているのであった。竹のインスタレーションとしては,この入口の竹のトンネルと竹を一列に並べた作品が見られる。インスタレーション (installation) というのは,「ソフトウェアのインストール」というときに使われる「インストール (install)」の名詞形であり,据え付け・設置の意味である。額に入っている絵画のようにそれ1つだけで作品とするのではなく,それの設置された空間全体で作品とするということを意味している。美術に関してはインスタレーション(名詞),ソフトウェアに関してはインストール(動詞)がよく使われるのは,美術では設置後の作品が,ソフトウェアでは設置する動作が,私たちの対象であるからだろう。
本物の竹から派生して,「竹」の字の書道作品も多数作られている。これが素晴らしかった。竹の真っ直ぐに伸びようとする勢いが,墨でそのまま表現されているのだ。文字としては「飛」や「夢」が好きらしい。
この展覧会の作品群から,勅使河原宏の,興味の対象を広げていくやり方を見ることができる。最初は関連するものからはじめるが,一旦はじめると,最初の枠をはみ出していくのだ。花をいける→花器を作ってみる→陶芸に熱中→陶芸作品を作りはじめる (もはや花器でない)。花をいける→素材の1つに竹がある→竹のインスタレーション作品をつくりはじめる (もはやいけばなではない)。竹を使う→「竹」という文字を墨で書く→書道作品を作り始める (もはや竹ではない)。
陶芸の章では,「父の器にいける」という題の大きな作品を見ることができる。これは勅使河原宏の次女で草月流第四代家元の勅使河原茜の作品である。この作品からは,親子というよりも,むしろ人間と人間の対話を見ることができる。もしもこの作品を作る過程を見ることができたなら,より深くその対話を読み取ることができただろう。考えてみれば,器というものは不思議な存在である。花をいけるために作られているが,どのような花がいけられるかは考えられていないからだ。単体としては,提示をして終了する。しかし,そこから先がある。花が生けられることで作品として完成するのだ。さらには,別の花が生けられれば,全体としては別の作品に変わっていく。
勅使河原宏の陶芸作品は,つぶれた形のものが多い。長いパイプを作って潰す,壷を作って潰す,などである。ぺちゃんこに潰すのではなく,中途半端に潰すことで,硬い陶器にフォルムとしての柔らかさを与えている。
絵画の章では,数点を油絵を見ることができる。シュールレアリスム的作品には,ダリやイブタンギーのようなテイストが見出せる。シュールレアリスムに真面目に取り組んでいる姿勢が感じられる。はじめは画家を志したとのこと。「試しにちょっと描いてみました」的なものではなく,「画家として描いた」というようなきちんとした絵画作品に仕上がっている。
最後は映画の章である。映画のポスターやパンフレットを見ることができた。砂の女のポスターやパンフレットあった (この映画は傑作である→nlog(n): 砂の女)。常時,映画の一部が流されていたが,ゆっくりと見ている暇はなかった。その他にも,展示室の数箇所でビデオ解説が流されていた。時間があれば見るのもいいだろう。
展覧会については,JDN /JDNリポート / 「勅使河原宏展 − 限りなき越境の軌跡」 で詳しく紹介されている。一部間違っているのは,「父の器にいける」の説明で,勅使河原宏が父である蒼風が残してきた陶芸作品を花器とし、生けた作品が展示されています。
となっている点である。上で書いたように,ここでの「父」とは蒼風のことではなく,宏を指している。
この日,赤瀬川原平による,勅使河原宏の映画作品に関する講演会があった。これも面白かった。後で書くかも知れない (1年越しで書きました→nlog(n): 赤瀬川原平講演会「『利休』『豪姫』勅使河原宏の作品のこと」メモ)。
勅使河原宏が,次々と作品を生み出していくときの躊躇しない姿勢が感じられ,刺激的だった。熱中し,先に進んでいく。「ためらうな,思い切ってやれ」そう言われているような気がした。
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