育児と介護はどちらも手間がかかる。それでもやっていけるのは期待や思い出があるからである。
育児には手間がかかる。面倒である。私は育児の面倒なところを全て妻にまかせてしまい,遊ぶことくらいしかしていないが,それでも面倒である。
子供は可愛い。私の子供も1歳を過ぎ,ヨチヨチ歩き出して,何だかよく分からないことも喋るし,とても可愛い。しかし,手間もかかる。もしも今の状態が永遠に続くとしたら耐えられないに違いない。可愛いという感情で育児はできないことに気がついた。
育児の情熱を支えているのは,将来的な予想である。必ず成長するという期待があるからこそ,手間のかかることを乗り越えていけるのだ。
私には高齢の祖母がいる(nlog(n): 祖母の予言)。夏に自分は死ぬのだという予言に反して今も生きている。最近はボケが進行してきていて,ボケが強く出たときは,幼児と同じような反応になる。そして幼児と同じように食事やトイレに手間がかかる。
老人は,いわば「成長しない幼児」である。成長が期待できないので,世話を続けるのには限界がある。それでも何とかやっていけるのは,今までの思い出があるからである。これまで生きてきた長い時間を知っているということが,介護をする人間の支えとなっているのだ。
逆に考えれば,その老人の過去を知らない場合,介護を続けるのはかなり難しいということが言える。子供の成長は他人のものでも予想できるが,老人の過去は他人とは共有できないからだ。
老人介護については,先が見えないという問題もある。早く死んで欲しいとは思わない。できるだけ長生きをして昔の話を聞かせてほしい。しかし,いつまで介護を続けるかが分からないのも困るのだ。なかなか難しい。
2012年12月8日追記:
祖母は逝きました (nlog(n): ばあちゃんが死んだ)。
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