歩いている道が間違っていたとしても,誰も「歩くのをやめろ」とは言ってくれない。
朝起きて,仕事に行って,帰ってきて,夜寝る。毎日この繰り返しだけではつまらないので,普通は何かしらの目標を持って生きることになる。目標には近いものや遠いものがある。遠い目標のことは「夢」とも呼ばれる。自分では目標に向かって進んでいるつもりでも,見当違いの方向に進んでいることもある。方向は正しくても,たどり着けないこともある。歩き方が間違っていることもある。この場合の大きな問題は,
ことである。
努力すれば必ず報われる。しかし,努力の仕方が間違っている場合は,無駄に終わる。人生には無駄があってよいが,一生で使える時間は限りがあるので,無駄ばかりはしていられない。不安になるのだ。自分の進んでいる方向はこれで合っているのだろうか…と。
人が他人に助言できることは少ない。あるとすれば,次のことくらいだ。
子供の頃はどれも言われる。進む道を矯正される。しかし,大人になると,どれも言われなくなる。あるのは「頑張れ」「やるだけやってみろ」くらいである。「頑張れ」は,「続けろ」の意味である。「やるだけやってみろ」は,「やれ」がメインの意味だが,「ダメなら諦めろ」も少しは含まれている。
「目標がある」という人間を見たとき,私がとるのは「続けろ」と言うか,あるいは何も言わないかのどちらかである。
それが到底達成できそうにない目標であっても,「やめろ」とは言えない。月に行ってみたいという人が,ひたすらジャンプの練習をしている人を見かけても,「やめろ」とは言えない。かなりヤバい人だからだ。埋蔵金探しをしている人にも「やめろ」とは言えない。もしかしたら見つかるかも知れないからだ。そして,所詮は他人の人生である。
例えば,自力でインドに行きたいと思ったとする。日本にある自分の家を出発して,西に向かう。玄奘三蔵がしたように歩いていく。ニンニキニキニキ向かう。その姿を見た人は,目標を持って歩く私に,「ガンバレ」と声をかけてくれる。「続けろ」の意味である。「ガンバレ〜ッ,ガンバレ前畑〜ッ」。その声は心の支えになる。しかし,日本の西の端に着いたところで途方に暮れる。「インドには歩いては行けない」と。そこでやっと気がつくのである。もし,早い時点でこのことに気がついていれば,歩くのをやめて,別の手段を考えていたはずである。
なぜ誰も「やめろ」と言ってくれなかったのか。それは自分が他人に言えないのと同じ理由である。
応援は無責任にできる。しかし,やめさせるのは無責任にはできないのだ。
自分は歩くだけの力があるのか(nlog(n): 自分の評価を見直そう)。その判断も自己責任。自分の歩いている道は,行きたい場所に続いているのか。その判断も自己責任である。あ,その前にきちんとした目標がないか。
Posted by n at 2006-10-24 23:51 | Edit | Comments (2) | Trackback(0)
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歩いて 初めて道だから・・・
歩いた自分に意味が付かなくても
その後に 続く人には 意味があるのかも
理に叶った 努力が出来る事が 才能かも・・・
Posted by: maro助 at October 26, 2006 22:10失敗だったら失敗だったと,後に続く人に伝えないといけませんね。後に続いてはいけないと。
Posted by: n at October 28, 2006 00:33