「ダメな議論―論理思考で見抜く」を読む。ダメな議論に対して,ここがダメだと言うのはよい。しかし,文例に対するダメ出しの仕方が悪すぎる。
飯田 泰之著「ダメな議論―論理思考で見抜く」 (ちくま新書) をタイトルにひかれて読み始めた。
序章には,この本の基本方針は,“ダメな議論”を見抜く手法を考え,ダメな議論を除外していくことで「正しく,有用なもの」である可能性の高いものを残すというものだとある。それはよい。まずいのは,dankogai さんが指摘するように,ダメ出しで終止してしまっている。「それでは、よい議論とはかくあるべきか」という提言が見当たらないのである。
ということである (404 Blog Not Found:ダメな議論)。さらに何よりもまずいのは,議論の仕方がダメなことなのであった。
前半では,ダメな議論を見抜く方法について,5つのチェックポイントを上げて述べられている。
- 定義の誤解・失敗はないか
- 無内容または反証不可能な言説
- 難解な理論の不安定な結論
- 単純なデータ観察で否定されないか
- 比喩と例話に支えられた主張
これはよい。後の章で,これを実例に適用していくのだが,ダメ出しの理由が悪い。
例えば,114ページには,次で始まる主張があげられている。
ニート問題,心を病むひきこもり少年,凶悪化する少年犯罪など,若者をめぐる問題は深刻化の一途をたどっている。このような若者の状況を考える際に非常に重要なファクターとなるのが「夢」というある意味で陳腐化してしまったタームである。ここでいう夢とは寝ている間に見る夢のことではない。将来に向けての理想,それを目標に自分を突き動かすものとしての「夢」である。(後略)
これに対し,次のように指摘している。
「夢」とはいったい何でしょうか。「夢」には厳密な定義はありません。その意味を絞り込んでも,せいぜい「自分の将来に望むこと,やりたいこと,希望」といった程度のものにしかならないでしょう。
定義としてどこまでの厳密性を求めているのだろうか。「将来に向けての理想」を「夢」と定義して議論を始めているのだから,問題はない。この指摘は,定義の厳密性をどこまで求めるかが「曖昧」なダメな議論である。
上の例文の主張の後半では,夢を持たないことがどうしてニートになることにつながるのかが欠けているため,これにダメ出しをしている。そのダメ出しは適切である。
141ページには,日本の食糧自給率が低いことを嘆く例があげられている。
昨日の昼食は天ぷらそばであった。純和風の店で純和風の昼食をとる……しかし私は本当に日本食を食べたといえるだろうか? 左のイラストと表を見てほしい。天ぷらそばの主役であるそばとえび,そしてそれを加工するための油に至るまで国産品の占める割合はわずかなものだ。(表は省略) 日本の食糧自給率が極めて低い水準にあるのは周知の事実である。(後略)
これに対する批判が,次のように述べられている。
外食で1000円の天ぷらそばを食べたとします。このとき,私たちが購入したのは何でしょう。(中略) 私たちが購入したのは原材料ではなく,完成品としての「天ぷらそば」です。(中略) 1000円の天ぷらそばを構成するものは
天ぷらそば¥1000=そば屋の加工・サービス¥600 + 流通業者のサービス¥80 + 食品製造業の付加価値¥90 + 加工前の原材料価格¥230であることが分かります。(中略) 全体の8〜9割が日本製ならば,日本食を食べたと言ってもいいのではないでしょうか。
確かに,天ぷらそばは原材料だけでできているのではない。完成品としての天ぷらそばの金額の構成はその通りなのだろう。しかし,サービスではお腹は膨れないのである。原材料の占める割合は低いが,原材料を除いてしまえば,もはやそれは天ぷらそばではない。落語に出てくるそばの食べるまねである。落語はサービスだけで出来てるので,その料金の価値がある。しかし,そば屋がそばの原材料なしでサービスだけだったら,それは「エアーそば」である。「エアーそば」と表現すると,ちょと見てみたい気もするが,今はその話ではない。原材料の国産の割合だけに注目した主張も問題だが,サービスの国産の割合だけに注目した批判も,同様にダメな議論である。
また,上の元の主張は,「天ぷらそばを外食で食べたこと」で始まっているが,議論の対象は「外食の天ぷらそば」ではなく「天ぷらそばそのもの」なのであって,外食に限定していない。原材料における国産の割合について論じていることから明らかである。したがって,サービスの割合を持ち出すのは意味がない。元の「天ぷらそば」の話は,自分が料理したときでも同じ議論ができるからである。最初に「外食の天ぷらそば」が出てきたからと言って,「外食の天ぷらそば」だけを議論の対象にし,サービスの割合を考えろというのは,勝手な解釈をした妙な難癖である。まさにダメな議論の典型である。
この本の中の飯田氏の主張には,かなりの歯切れの悪さがある。多いのは次のパターンである。
例題の主張: A は B である。
飯田氏: A は C かも知れません。
例題の「A は B である」をきちんと否定していない。「A は C かも知れません」と言っている。なんとも歯切れの悪い否定のしかたである。上の天ぷらそばの例でも 全体の8〜9割が日本製ならば,日本食を食べたと言ってもいいのではないでしょうか。
と言っている。つまり,「A は B かも知れないし,C かも知れない」ということになり,別の見方ができるというだけで,議論としてダメだという結論にはなっていないのである。批判としてなっていない。ダメならダメだときちんと言うべきである。しかも,「言ってもいいのではないでしょうか」という言い回しは,読者の共感(ラポール)を得ようとするものであることに注意しなければならない。この本の中では「ラポール(信頼関係)によって,何となく納得させるダメ議論に気をつけろ」と強調しているのに,自分でダメなラポールを築こうとしてしまっているのだ。
この本では,ダメな議論を見抜くための方法を提案している。そしてダメな議論の排除を推奨している。しかし,見抜く議論そのものがダメな議論なので,読んでいてとても苦しい。この本自体の排除を推奨しているような,自己言及的かつ自己批判的な内容と思えるくらいだ。先に引用した5つのチェックポイントも,厳密に定義してあるせいか覚えづらく,使いづらい。そして何より,建設的でないのが一番の問題である。
建設的に議論をする力をつけたいのであれば,「反論することでこそ議論が深まる」という主張のもとで書かれた,香西秀信著の「反論の技術」をお薦めしたい (nlog(n): 反論の技術―その意義と訓練方法)。
Posted by n at 2007-10-02 23:54 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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