「体力づくりをする理由」を考える。上手い理由ができたら,それを動機にしたいからだ。理由がないと行動に移せないのだ。
「何をするにも,体が資本だよ」。私は若い頃から,お年寄りに会うたびにそう言われてきた。お年寄りは正しいのである。私も,健康には気をつかっていて,手洗いや嗽{うがい}で風邪の予防をしているし,少しおかしいと思ったら医者に診てもらう。
駄菓子歌詞,だがしかし,これだけではダメなのであって,つまり,体力維持が抜けてしまっている。これは,ズボラな性格が災いして,体を動かすことを何もしていないのが原因。昨年は,かなりひどい目にあったのに (nlog(n): 頚椎ヘルニアその後),生活はそこから何も変わっていない。
このままではいかん。
「体が資本」というのは,全ての基礎が肉体にあることを言っているので,例えば上の図のようなモデルになるだろう。しかし,私自身が欲しいのは,明晰な頭脳や高い精神状態であって,このモデルで考えていると,精神と頭脳の結びつきは強いが,肉体の結びつきが弱く,肉体を大切にするという気にならない。まったくならない。
「生きていればいいや」くらいにしか思っていない。
やはり,このままではいかん。
本来,肉体と精神は独立のものである。
「健全な精神よ,健全な肉体に宿れ」は,ギリシア時代から言われていることなのだそうだ (ユウェナリス - Wikipedia)。現在もこのことが言われるのは,実現が難しいけれども,いつの世にも変わらない願いだからなのだろう。
目に見えるものがたとえ美しくても,それが直ちに精神的な価値を約束するわけではない。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といわれているのはギリシャ語の誤訳であって,「健全なる精神よ,健全なる肉体に宿れかし」というのが正しい訳のようである。それというのも,ギリシャ以来,肉体と精神との齟齬{そご}矛盾についての観察が,いつも人々を悩ましていたことの証拠である。
三島由紀夫著「若きサムライのために」―若きサムライのための精神講話「肉体について」 (文庫 pp. 42-43)
健全な肉体があるからといって,自動的に健全な精神を手に入れられるわけではないということだ。逆に,健全な精神が病弱な肉体に宿っている場合もあるはずである。しかし,この場合,肉体の衰えが早いため,健全な精神は長続きしなさそうだ。
三島由紀夫の言う「宿れかし」の「かし」は,「呼びかけや命令の文末に付いて、強く念を押したり、同意を求めたりする意を表す終助詞」だそうだ (かし[終助副助]の意味 - 国語辞書 - goo辞書)。だから,「宿れよな,宿るといいよね,君もそう思うだろ?」という意味になるのだろう。
語順を変えて「健全な肉体よ,健全な精神を宿せ」でも似た意味になるが,何となく,筋肉っぽい体を作る方が先に来そう。ムキムキを求めないとすれば,もともとの「健全な精神よ,健全な肉体に宿れかし」の方が自然かも知れない。
体と頭は,使えば使うだけ能力が向上する,という点でよく似ている。頭は体の上に乗っているが,体の一部であると考えるのは,ここではやめておく。また,ぐるりと一周するモデルも (nlog(n): 心と体の関係はデスクトップとローカルディスクの関係に似ている),横に置いておく。
肉体と頭脳と精神が,それぞれ独立に存在して,バランスを保っていなければ意味がないとするならば,上の図のように考えるのがよさそうである。
朝4時に起きるという生活は,結構快適で続いているので (nlog(n): 朝4時起きの生活),朝食前に運動を,できれば…,いや,やるのがいいに違いない…,そうではなくて,やるのだ。よし,やろう。
NHK外国語講座「実践ビジネス英語」 の今週の復習は,「Keeping Fit」。これは「健康維持」の意味だそうだ。フィットネスクラブの選び方が話題になっている。
この記事は結局,何だったのかと言えば,運動をするための理由づけだったのである。まとまりがなさすぎ。
2010年10月27日追記:
ジョギングをはじめました (nlog(n): ジョギングなう)。
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