時間をかければ何でも習得できる。そう思わなければやっていられないのも事実である。それでも,これは実際に本当のことである。このことが分かっていれば,反復練習もそれほど苦ではなくなるのだ。苦しさを克服できれば上達も遠くはない。
何らかの技術を習得するということは,それに慣れるということである。慣れるには一定の時間が必要である。どれだけ上達したかという度合いは,どれだけ時間をかけて練習したかによる。
私がこれを最初に実感したのは,自動車教習所での出来事だった。
自動車の普通運転免許を取得するには,自動車教習所で技能教習と学科教習を必要時間数受ける必要がある。普通一種免許であれば,技能34時間,学科26時間を受けなければならない (教習時間数 - Wikipedia)。逆に考えれば,この合計60時間という時間をかければ運転する技術を身につけることができるということなのである。これは驚くべきことである。この時間数は道路交通法施行規則で決められているというのも,当然そうであるべきだが,これも驚きである。1日に受講できる時間数にも,2時間とか3時間のような制限があり,人間の学習に関する理論と統計情報に基いて決められているフシがあるからである。日本の法律のクセに。いや,疑問を持っているわけではなく,実際に科学的データに基いて法律が決められているのであれば,立派だということである。
ある一定時間をかければ運転技術は習得できる。そして,同じ60時間でも日数をかけた方が身につきやすい。優れたシステムである。この教習システムの枠組みを他のことに適用できるかといえば,もちろん同じようにできる。ただし,ここで見落としてはいけないのは,教習システムには,熟練したコーチが隣にいるということである。
私が通った教習所は都内にある日の丸自動車教習所というところで,何でも芸能人の受講生も多いらしく,私の通っていた頃には比企理恵ともう一人男性の若い演歌歌手が来ていた。全然関係ないけど。それから,教習所のコーチにはいろいろな人がいて,なかなかハンコを押してくれないという噂のコーチや,女性には甘いというコーチもいた。運転技術と性格や判断基準は別のものである。
考えてみれば,優れたコーチがついていて,時間をかけ,日数をかけるというシステムは他にもあるじゃないか。学校である。今まで散々通ってきた学校がまさにこのシステムになっていた。先生という優れたコーチがついていて,時間割でスケジュールがコントロールされている。
さて,教習システムを独学に応用できるのだろうか。自分が自分の教師役をすることができれば可能である。そして,反復練習はトレーニングであると割り切ることが大切である。単なるトレーニングであると認識できれば,「痛みは避けがたいが,苦しみは自分次第」のロジックが使える (nlog(n): 自分のことを語りたくなる「走ることについて語るときに僕の語ること」)。そうすれば,反復練習も「苦」ではなくなるのである。反復練習が「痛」であることに変わりはないが (泣)。
スポーツも同じである。ソフトボールの投げ方の例では (反復練習のメカニズム),正解パターンを大脳に,繰り返すことで小脳に,バリエーションを増やすことで大脳と小脳を連携させることが説明されている。大脳で理解するには教師が必要で,小脳への定着を繰り返しで行い,バリエーションを日数をかけて増やしているのだ。語学に関しても同じである。ただし,英語の習得には1000時間とか10000時間が必要だという具体的な数があげられていたりするが,「習得のレベル」が具体的でないので時間数を気にする必要はない。
年齢というのは,自分で思っているほど関係がない。年齢を気にするよりも,始めることの方が大切である。
ということを心の支えにしてこれからも生きていくのだ。
Posted by n at 2014-06-19 23:12 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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