自分の現在の思考をそのまま文章にして書き出すという作業は,非常に面白いし,心の安定にもなる。出来上がった文章は,文法的にはダメダメだが,思わぬ発見もある。そんな文章を公開していくことはできないだろうか。
言葉を選んで文章を書いていくのは,つらい作業である。言葉選びは,文章を書き終えた後にするのが健全である。つまり,最初は好きなように書いて,後で校正する。校正するという作業は,文章を創っていく作業とは分離すべきなのだ。
しかし,校正するには一定の時間がかかるので,なかなか公開できないということになる。そうこうしているうちに,その話題に対する熱が冷めてしまい,せっかく書いた文章がゴミになってしまう。何とかならないものだろうか。
私は,今現在考えていることをそのまま文にしていく,ということをする。何か特別なことを考えるのではなく,誰かに分かって欲しいというのでもない,単なる自分の頭の中での対話を文章にしていくというものである。この作業は,私の精神を安定させるのに非常に役立っている。
その作業を行うと,例えば次のような文章ができあがる。
一日中書き続けるというのが,私の本来の姿なのではないだろうか。最近そう思うようになった。待ち時間があって,ぼーっと検索をしていたり,はてブを眺めていたりする時間が長かったりすると,自分の中で何かが腐っていくような感覚にとらわれる。
私は話をするのが上手ではなく,思ったことを口に出していくことができない。しかし,物を書いていくことはできる。話すよりも時間と手間がかかるように思えるが,実際にやってみると,口を動かすことの方が手を動かすことよりもずっと大変なことなのだ。口を動かして発生をすると,思考が乱れてしまうのだ。頭の中で声が響くと,そこに注意が向けられてしまうため,思考が途中で途切れてしまうのである。その点,黙って手を動かすだけなら思考を妨害するするようなことはない。そのままの気持ちをペンに乗せることができるのだ。
思っていることを外に出していくという行為は,誰もが必要なことだ。それは自慢でもいい。そして外に出す方法は人によって違ってくる。得意とする表現方法はみな違うのだ。話すことで表現する人や,文章を書くことで表現する人がいる。他にも音楽や絵画で表現する人もいる。音楽は言葉を持たないが,言葉では表現できないものを表現することができる。表現するには,基本は自分の中で明確にイメージできていることが求められるが,必ずイメージできていなければならないかというと,そうでもない。表現している途中で最初のもやもやとしていたイメージが具体性を帯びてくることもよくあることである。
要はきっかけがあればよい。小さな種であっても,おもてに出していくことで大きく育つことがあるのだ。大切にしまっておくと,腐ってしまうこともある。それならば,干物や燻製のように,例え死んでいるとしても,生きているときに近い状態で固定してしまえばよいのだ。自分の思考は絶えず変化している。それを固定するのが表現なのである。
途中で止まったり,考え込んだりすることを極力避けて,次々に書いていく。出来上がった文章は,散漫だし,文法的にも緩くて,ツッコミどころ満載ではあるが,思わぬ発見もある。今まで分からなかったことが分かることもあるのだ。
これまで,このような文章は,秘密ノートに書くだけでよく,それだけで満足していた。しかし,「これは自由発想の校正なし文章だ」ということが明確になっていれば,公開していっても面白いのではないかと思うようになった。もしかすると,誰か他の人が読んでも面白いと思うかも知れない。公開することで再度自分で読み直す機会が増えるので,それによって新しい展開があるのではないかと思うのだ。
しかし,その作業をこのブログでやると,ブログのゴミ度がアップしてしまう。そうは言っても,別の場所でやると,このブログがおろそかになってしまう危険もある。力の配分ができるようには思えないからだ。
登録したままで放置している VOX なんかを使ってみようかしら(n@vox)。
2011年3月6日追記:
Vox のサービスは終了しました (nlog(n): Vox 終了で TypePad へ移行)。
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