ソフトウェアをオープンソースで公開するのは,そこに喜びがあるからである。信仰は関係がない。
ソフトウェアをオープンソースで開発し,公開する動機は何だろうか? 私はやってみるまでよく分からなかった。手の内を全てさらしてしまうし,一般には参加しても利益が上がったりすることはないからである。
梅田望夫氏も,オープンソースのプロジェクトに参加する技術者の動機が理解できないようだ。彼はまつもとゆきひろ氏との対談をおこない(前編,後編),まつもと氏がクリスチャンであることから,キリスト教にその関連性を求めた。しかし,まつもと氏は直接的な関連を否定している。
信仰とオープンソースの関係についての彼の考えは次の三点に集約された。(1)「Ruby」が欧米で受け入れられる段階において自らのキリスト教文化への理解が一助となったことは確かである (2)クリスチャンとして恥ずかしくない言動をと常に意識していることは、不特定多数を相手とするコミュニティ運営において好影響を及ぼしている (3)しかしリーナスは無神論者だし、信仰のオープンソースへの影響は副次的である。
まつもと氏の回答はもっともである。それよりも,私は,梅田氏が「信仰とオープンソースに関連がありそうだ」と考えた方に驚いた。キリスト教的だというのは,「汝の愛する隣人のためにオープンソースをする」という発想なのだろうか。オープンソースは,反権力という意味において,ヒッピー的なものである。ソースコードを,非公開として改変を許さない企業という権力から,自由にする活動だからである。フリーソフトウェアの祖であるストールマンは,その活動だけでなく,見た目もヒッピーである (リチャード・ストールマン - Wikipedia)。
梅田氏の方がオープンソースよりもずっとキリスト教的である。「目からうろこが落ちた」は新約聖書「使徒言行録」第9章「サウロの回心」の一節に由来するからである (人の目に鱗はありましたっけ? - 教えて!goo)。
まつもと氏は「私の動機は利己的なものです」として,梅田氏の質問に次のように答えている。
梅田: 「でもその周囲に集まってきて、プロジェクトに貢献する人々の動機はいったい何か」
まつもと: 「ほとんどの人は、適切な大きさと複雑さを持ったいい問題を探しているんですよ」
それも理由の一つだろう。しかし,これだけではない。
私がオープンソースで Movable Type のプラグインを公開しはじめてから,まだ2〜3年である。したがって,まだまだ「オープンソース初心者」ではあるが,やってみて分かってきたことがある。それは,オープンソースにして,「誰か全く知らない人が使ってくれる」ということには大きな喜びがあるということである。オープンソースしたからといって,それで飯が食える訳ではない。食えるのはごく一部のプロジェクトだけである。しかし,飯が食えないものには魅力がないかといえば,そんなことは全くない。もともと,私たちは飯のためだけに生きているのではないからだ (nlog(n): 俺たちの主食は霞だ)。
上であげた理由は,「フリーソフト」開発の動機であって,必ずしも「オープンソース」である必要はない。オープンソースにすることの利点は,「開発しなければならない」という束縛から解放してくれるのだ。心理的な重圧がないということは非常に重要なことである (nlog(n): やらなければというプレッシャーから逃れる方法)。気が向かなければ開発しなくてもよい。逆から言えば,「開発したいから開発する」というサイクルを生み出していることになる。
ソフトウェアというものは,ソースが公開されていれば,さらに改良できる。音楽のように,「ただ使って終わり」という,消費されるだけの物ではない。これもオープンソースの大きな魅力である。
私が最初にプラグインを公開したのが4年前の今日である (nlog(n): 休日表示カレンダープラグイン 1.0)。当初はクリエイティブコモンズライセンス by-nc-sa としていたが,縛りが強すぎるので,最近は Perl ライセンスで公開するようにしている。
そのうち楽譜も公開する。楽譜は音楽のオープンソースである。
Posted by n at 2008-03-21 23:32 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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