業務をマニュアル化してオープンにすることで,自分は半透明になっていく。透明に近づいて見えなくなるにつれて,逆に自分の存在価値は上がっていく…と信じたいものだ。
職場では,私は半透明になりたいと思っている。
ここ1年ほどかけて,自分のやっている仕事を文書化して同じ所属のメンバーに公開をしてきた。自分の仕事が外から見えるようにすることである。そうすれば,もしも自分が休んでいる場合や,死んでしまった場合でも,業務は続行できるからである。ここで言う「仕事」とは,主に「ルーチンワーク」を指す。
仕事を自分で囲い込んで,どのように処理しているかを見せないようにする人がいる。自分のポジションを守るためによくとられる戦略である。その人でなければ処理が進まないため,完了させるには「その人」がどうしても必要だからだ。いわゆる「業務の属人化」である。しかし,私はこれと真逆のことをやった。囲い込むことをせず,オープンにして,誰にでもできるようにする。はじめてやる人は時間がかかるかも知れないが,マニュアルを読めば必ずできるようにすることである。
最初に言った「半透明」というのは,動きを全部見せてしまうということと,自分個人の存在を薄くすること,の2つの意味である。
属人化は,悪意がなくても起こる。担当者が1人しかいない場合がそれである。自分がいないとき,他にやる人がいないからだ。その場合,マニュアル化するのは,かなり意識的にしなければできない。属人化は,仕事の負荷が高い場合にも起こる。マニュアルなどを書いているよりも,どんどん作業をこなすことが先決だからだ。ある意味で,属人化は「業務の最適化された姿」であるともいえる。
逆に,属人化しないようにすると,最適化はされない。例えば1人でやっていたルーチンワークを,業務分担して複数人で行うように変えるとする。そうすると,受け渡しのための「のりしろ」が必要になるからである。「のりしろ」は,紙同士を糊付けするときに必要になる余分な切れ端である。「のりしろ」はインターフェースであり,必要だが余分なものでもある。しかし,インターフェースの形をきちんと決めて,しかも小さくできれば,いいとこもある。仕事を上手い場所で区切り,インターフェースがきれいにできると,仕事は効率的にできるようになるのだ。受け渡すものが単純化されているので,ミスが減る。さらに,各人が担当する範囲が狭くなるので,精度が上がるのだ。
マニュアル化したことで,業務に一定の決まりができ,場当たり的にならないという嬉しい副作用も生まれた。できるだけ形式的に処理することで,判断が必要になる所を減らすこともできた。あまり頭を使う必要がなくなり,負荷が下がった。余った頭は,別のことに使うことができるようになった。
実は,マニュアル化した効果は,変なことから証明されてしまった。昨年,首を痛めて職場を丸2か月休んだときである (nlog(n): 頚椎ヘルニアその後)。私がいなくても,業務は滞りなく進み,何も問題がなかったと,復帰後に聞いた。自分がいなくても問題がないことが証明されてしまったのだ。
自分の仕事をオープンにすることは,その仕事を誰にでもできるようにすることであり,つまり自分でなくてもよいことになる。したがって,リストラの危機がある。しかし,もう少し考えてみればそうではないことが分かる。短期的と長期的な両方の視点で見ればよい。短期的には,リストラの危機がある。他の人に置き換えることができるからである。しかし,長期的に見た場合,業務を分解して並べ直し,マニュアル化して,誰もができるように整備するという作業は,誰もができることではない。そこに,存在する価値はある。…あるんじゃないかな。そう思いたい。
私はマニュアル化をしていて不安になると,こう自分に言い聞かせている「心配することはない。自分の身体を少しだけ透けるようにするだけだ。そのノウハウさえも公開しても構わない。誰もができる仕事ではないのだ」。
Posted by n at 2008-04-22 23:27 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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