日本人は欧米人に対して弱腰なことが多い。その原因には「戦争の記憶」というものがあるのかもしれない。
世の中にはおっかない本があるものである。フィリップ・K・ディックの「高い城の男」はその手の本の中の1冊である。私の心の底にあった,見ないようにしていた黒い内臓を鷲づかみにされて,引っ張り出され,目の前にさらされたような気分になったのだ。
この小説の登場人物であるロバート・チルダンは古美術商を営むアメリカ人である。日本人に頭があがらない。日本人客の一挙手一投足に常に注意をはらい,顔色を伺い,喜んだり悲しんだりする。
ロバート・チルダンはぱっと顔が赤らむのを感じ,新しく注がれたばかりのグラスの上に背をかがめて,この家のあるじから顔を隠した。最初から何というひどい失態を演じたもんだろう。大声で政治を論じるという,ばかなまねをやらかしてしまった。しかも,無礼にも異論を唱えたりして。招待者側がうまくとりなしてくれたおかげで,やっとこの場が救われたようなもんだ。わたしはまだ修行がたりない,とチルダンは思った。彼らはとても上品で礼儀正しい。それにひきかえ,わたしは――白い野蛮人だ。まちがいなく。(高い城の男 pp. 162-163)
これは,アメリカが戦争に負けたのが原因であるという。そうなのだ。この小説では,第2次世界大戦において,ドイツと日本が勝利した後の世界が描かれているのだ。ドイツは政治を支配し,日本は文化を押しつけている。チルダンは,強大な権力に屈し,いじいじしているのだ。一方で,ドイツの恐怖政治を批判し,日本の借り物文化をバカにし,創造的なのは白人だけだと思っている。しかし,この考えをおもてに出すことはない。表面上は,あくまでヘーコラしているのだ。要するに卑屈なのである。
実際の歴史では,日本はアメリカに負けている。つまり,「アメリカ人にヘーコラして卑屈」なのは日本人だといっているのである。その描写が克明なのだ。最悪である。そうなのだ。この本は,日本人が読むと胸クソが悪くなる第一級の小説なのである。
私は,外国人を,肌の色や国で差別しない。差別しないように努力している。これは,顔や名前を知っている個人であれば,たやすい。個人に対しては,蔑みや憧れの感情は発生しない。しかし,名前を知らない人々に対しては,下に見たり上に見たりするような気がする。きれいごとを言っても,心の中では…どうなのだろうか。
私は,チルダンの心境にぎょっとした。私が,欧米人を上に見ることがあるのは,戦争が原因なのだろうか,と。戦後何十年も経っているにもかかわらず,戦争に負けたことが,後遺症として文化の中に生き続けているということはないか?
例えば,「英語が話せます」と「中国語が話せます」であれば,英語が話せることの方が響きがいいように感じるのではないだろうか? どちらも「外国語」ということでは同等にもかかわらずである。そもそも,なぜ「話せる」と言うのか。「話す」でいいではないか。「英語を話します」で問題ないはずだ。欧米に対する憧れが,日常生活の中に摺りこまれていないだろうか?
小説と現実の世界では,もちろん設定が大きく違う。小説では,アメリカはドイツと日本に支配されている。支配されている側からすれば,強大な権力は,屈するものである反面,憧れでもあるからである。直接の支配を受けていれば,その感情が大きく出ることは間違いない。振り返って,現在の日本を見たとき,どこからの支配も受けていない。しかし,感情のどこかには「原因不明」の蔑み{さげすみ}あるいは憧れが潜んでいるようにも思えるのだ。
一般には,上の「原因不明」は,いろいろな要因が複雑に絡み合っているときに発生する。対象が日本人であっても,体が大きいか小さいかから始まり,頭の良いか悪いか,お金持ちかそうでないか,運動神経が良いか悪いか,知名度が高いか低いか,権力が強いか弱いか,などなど。民族が違うのであれば,文化はどうか,思想はどうか,なども材料になりそうである。
戦争についてはどうだろうか? 敗戦の記憶は,もしかすると,私たちの行動に影響を与えているかも知れない。しかし,もう大丈夫である。可能性があるということをこの小説で教えてもらったからだ。気になったら立ち止まってチェックすることができる。ここで言いたいのは,戦争を忘れてしまえということではない。戦争の記憶がマイナスの方向へ作用しているとしたら,そこには注意が必要だと言っているだけである。
さて,小説に話を戻すと,日本がアメリカに持ち込んだ文化として,「食事」「輪タク」「易経」があるとしている。食事は,野菜と肉のごたまぜ料理,あるいはエビや貝ばかりの魚介料理でうんざりだそうだ。移動に使うのは輪タクである。輪タクとは自転車が人の乗った客車を引っ張るタクシーである。日本にはない。それがあるのは東南アジアの別の国である。易経は,「当たるも八卦当たらぬも八卦」と言う中国から輸入したあれである。小説の中ではアメリカ人も易経をやる。易経は単なる占いではなく,必ず当たる占いとして描かれる。日本人の文化の描写はこのようにかなり無茶苦茶である。
この小説では,逆転した世界で5〜6人の,日本人,ドイツ人,アメリカ人がそれぞれの生活を送っている。彼らの接点は多くない。ばらばらなのである。登場人物は,ある本を読みふける。その「ある本」には,アメリカが戦争に勝ったという,さらに逆転した世界が描かれている。その本は発禁であり,タイトルは『いなご身重く横たわる』で,作者のホーソーン・アベンゼンは「高い城の男」と呼ばれている。この本には,明確な主人公が存在しない。最初に出てくるロバート・チルダンは,最後の場面に登場しないのだ。
ディックは,1952年に『ウーブ身重く横たわる』で商業誌にデビューをしている (フィリップ・K・ディック - Wikipedia)。このタイトルは『いなご身重く横たわる』に酷似している。しかし,これを意識したのは訳者だろうとされる (パーキー・パットの日々)。『ウーブ…』の原題は「Beyond Lies the Wub」,『いなご…』の原題は「The Grasshopper Lies Heavy」であり (The Man in the High Castle),大きく違っているからである。
この小説は,登場人物もばらばらだし,結末もよく分からない。しかし,心理描写は一級品である。まともな日本人なら吐きそうになることは間違いない。敗戦国の卑屈心理を描いた逸品であると言えよう。
Posted by n at 2008-05-13 22:18 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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