昔は,ルールを隠しておくことに意味があった。しかし,すべての事柄が明らかにされていく時代では,ルールも明かされ,隠蔽は不可能となってしまった。教育に関しても大きく変えて行く必要があるだろう。
先日の記事で「ルールを隠しているのには意味がある」と書いたが (nlog(n): 子どもが知りたいことと大人が期待することは違う),それは昔の話。現在の「すべての事柄が明らかにされていく時代」では,ルールを隠しておくことはできないし,意味もない。この先生きのこるには,教育も大きく変えていく必要があるのだろう。
タイトルを見て「先生?」「きのこ?」と思った方はこちら→(nlog(n): きのこの価格?,nlog(n): かえりなさい)。
ルールがあるのは当たり前のことだけれど、「当たり前」のことだって、習わなければ分からない。心臓が止まった人の顔色は悪くなる。これは「当たり前」だけれど、外来や病棟で急変して、心肺蘇生が必要な患者さんに対して、「どうしましたか?」と尋ねる研修医は、毎年必ず出現する。習っていないから。
これは割と最近の若い人たちによく見られるようになった傾向である (出た! 「最近の若者は」論)。教わったことはよくできるが,教わっていないことに直面すると思考停止してしまうという傾向で,私もこれは近頃特に多くなっていると感じる。
恐らくこれは,学校でいい成績を取るための「見えないルール」が最近では「見えるルール」に変わってきているからだと思われる。それまでは,限られた人だけが知っている「裏技」だった「見えないルール」の把握法が,誰もが知ることになってしまったことの結果なのだろう。
『心肺蘇生が必要な患者さんに対して、「どうしましたか?」と尋ねる』というのは,あまりにバカげているように見えるが,よく考えれば,対応としてはそれほど間違っていない。未知の事象に対して,自分の知識と今までの経験で対応しようとするのは人間の動きとして自然である。単に知識と経験が少ないからである。人間は,教わったことと自分で経験したことの中から,最良の方法を選択していくものだからである。また,似た経験があるからといって,それが正しいとは限らない。経験に頼りすぎると,大きな間違いを起こすこともあり得る (nlog(n): 頚椎ヘルニアその後)。医師であればなおさらである。
昔は,よい成績をとるためのルールが隠蔽されていたため,2種類の努力をしなければならなかった。ルールを見つけるための努力と,教わったことを身につける努力である。最近はルールを見つけるための努力が不要になったので,そのルール上に乗っている学習だけに専念すればよくなったのだ。したがって,効率よく大量の学習が可能になった。そのため,知識の量で言えば,昔より今の方が豊富になっていると思われる。ただし,知識として蓄えられているものと少しでも違ったものに対しては対応できなくなっているのが弱点である。
これを考えると,最近の若い人たちは理不尽な扱いを受けているように思える。学校では,よい成績を取ることを求められる。よい成績を取るには,すでに明らかになっている「かつては見えなかったルール」をもとに,そのルール上で効率よく知識を吸収することを強いられる。ところが,就職して社会に出ると,「見えないルールを見つけ出す」ことを強要されるのだ。学校で習ってきたこととは真逆である。しかも,社会における「見えないルール」は,バリエーションが多すぎて,一般論は通じない。すべてが個別ルールである。さらに,すでに社会人のオッサンたちは「ルールが隠されていた」時代を過ごしてきたので,その視点からは今の若者が「単に応用力がない人間」としか写らないのである。
「これまで隠されてきたことが明らかになっていく」というのは,多くの事柄に共通する時代の流れである。インターネットは,その流れを加速している。いったん明らかになったルールは,それを隠すことはできない。
教育のあり方についても,抜本的に見直していかなくてはならないだろう。生きのこるために,今の大人たちが考えて行かなければならない問題である。
Posted by n at 2011-02-07 22:33 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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