「英語は論理的」と思っている人がいる。しかし,それは単に「論理的に書かれた英文だけ」を読んでいるために,そう思えるだけである。
「英語は論理的,日本語は非論理的」という話をする人がいるが,それは単に,読んでいるのが「論理的に書かれた英文だけ」であり,非論理的なことが混じっている「日本語の日常会話をしている」からそう思えるに過ぎない。
言語に対して「論理的であるかどうか」を議論するというのは,あまりいいとは言えない。「論理的であるかどうか」は,その言語で表現することがらの「つながり」に対して議論すべきで (論理学 - Wikipedia),言語そのものに対しては,何を意味しているのかが不明になるからである。つまり,言語そのものが論理的であるかどうかという議論は,論理的にはなりえないのである (頭が痛くなってきた,風邪かな?)。
言語に対しては「形式的かどうか」が相応しい。「形式的」というのは,文法が確立されていて,文法通りの言語表現が行われているということである。
日本人の学習者から見た英語は,「文法がしっかりしていて,表現も文法通り」であるが,逆の立場ではどうだろうか。それは次のコメントに表れている。
レオ (2010-12-24 (Fri) 17:33)
日本語を習得した英語ネーティブスピーカーとして読んで、非常に面白かったです。私の日本語を勉強する経験に似ているところが多かったです。
しかし、文法に関して、私の印象は真逆でした。英語の方はなかなか曖昧でルールに沿っていないものが多いのに対して、日本語の方は非常に論理的できっちりした文法を持っていると思っていました。(後略)
英語ネイティブスピーカーの学習者から見た日本語の印象は,日本語母語の学習者の持つ印象とちょうど反対になっているのである。
恐らく,日本語,英語,その他どの言語においても,上の図のように,文法通りで規則的になっている部分と,それ以外の部分でできているという構成は同じになっているのだと思われる。
外国語を学ぶときは,まず文法を学ぶ。文法書には文法通りの文が出てくるので,その言語がいかにも「形式的」であるように思えるのである。しかも,文法書は論理的に構成されているので,「この言語を使っている人たちはすごく論理的思考をしているに違いない」という印象を持つのである。文法書の出来が良過ぎるというのもその印象を加速させる原因になっている (nlog(n): 「英文法をこわす」で英語の感覚をつかむ)。しかし,学習が進むにつれ,例外の多さに気づき,「ブチ切れる」ことになるのだ (英語のどこが論理的なんだよ、例外多すぎ)。
したがって,「英語は形式的」と言っている人は初学者である。「英語は論理的」と言っている人は日本語を勉強したほうがいい。少なくとも「論理的とは何か」について答えられるようになるべきである。
『日本語は本当に「非論理的」か』という本もあるそうだ (教授のひとりごと : 日本語は非論理的か - livedoor Blog(ブログ))。これはこれで興味深い。
モダンな言語はどの言語も,文章を論理的に書くことができる。歴史の長い言語は,非論理的なこともある人間の感情も表現することができる。それだけのことである。
かく言う私はというと,英語学習が進むにつれ,英語がウンコに思えてきたひとりである。
Posted by n at 2011-02-08 23:08 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
Master Archive Index
Total Entry Count: 1957