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misc 自分のことを語りたくなる「走ることについて語るときに僕の語ること」

村上春樹著「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだ。読んでいて,「僕はこう思う」と自分のことを語りたくなる本だった。

■ ■ ■

村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだ。図書館で借りてきて,積んでおいただけで,そろそろ返却期限が近いからと思い,最初だけでも目を通しておくかと思ったら,最後まで読んでしまった。私も毎日走っているのだが (nlog(n): 多少の疑問を感じつつもジョギングなう),私の場合は「体を鍛える」以外の目的はなく,どちらかと言えば「無闇に」走っている部類に属す。それほど楽しいわけでもないのに毎日走っている。自分でも意味が分からない。そんな中で,他人は,特にアスリートでない作家などは,何を思いながら走っているのだろうかというのが,興味を持ったキッカケである。

これは村上春樹の走ることに関するエッセイ集であるが,本人は特に後書きの中で次のように言っている。

僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが,エッセイというタイトルでくくるには無理がある。(p. 236)

メモワール (memoir) とはフランス語で「記憶」「思い出」を意味する名詞である。英語でも主に「回想録」「自伝」を指す言葉として使われる (メモワール - Wikipedia)。著者自身は「個人史というほど大層なものでもない」と言っていることから,英語の「回想録」「自伝」としての意味で使っているように思われる。

この本の,少し不思議な,「語る」が2度も出てくる長めのタイトルについては,次の記述がある。

僕の敬愛する作家,レイモンド・カーヴァーの短篇集のタイトル What We Talk About When We Talk About Love を,本書のタイトルの原型として使わせてもらった。こころよく許可を与えてくれた夫人のテス・ギャラガーに感謝する (p. 241)

英語版のタイトルは「What I Talk About When I Talk About Running」となっている。「a memoir」とタイトルの下に添えられている。フランス語ならば「le memoir」となるはずなので,英語に輸入されたメモワールの意味で使っているのだろう。

さて,この本の主題は,「走ることの苦しみ」である。こんなに苦しいのになぜ走るのか? それは,この本を書く前には本人も把握していたわけではないようだ。前書きのなかで 走ることの意味について考察するには,手を動かして実際にこのような文章を書いてみなくてはならなかった。(p. 2) と言っている。

長距離を走るには苦しみがともなうが,苦しみというもの全体から「痛み」というものを分離して考えるというあるランナーの記述がある。ものごとを分解して考えるのは,西洋人の得意とするところである (nlog(n): 英語のここが分からない - 分解するのが当たり前)。インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙によるマラソン・ランナーたちへのインタビューで,彼らがレースの途中で,自らを叱咤激励{しったげきれい}するためのマントラを紹介した特集があったとのこと。

その中に一人,兄(その人もランナー)に教わった文句を,走り始めて以来ずっと,レース中に頭の中で反芻{はんすう}しているというランナーがいた。Pain is inevitable. Suffering is optional. それが彼のマントラだった。正確なニュアンスは日本語に訳しにくいのだが,あえてごく簡単に訳せば,「痛みは避けがたいが,苦しみはオプショナル (こちら次第)」ということになる。たとえば走っていて「ああ,きつい,もう駄目だ」と思ったとして,「きつい」というのは避けようのない事実だが,「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。この言葉は,マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。(pp. 3-4)

そして本の最後の方で,苦しみについての結論のようなものについて述べている。

「苦しい」というのは,こういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。もし苦痛というものがそこに関与しなかったら,いったい誰がわざわざトライアスロンやらフル・マラソンなんていう,手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう? 苦しいからこそ,その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ,自分が生きているというたしかな実感を,少なくともその一端を,僕らはその過程に見いだすことができるのだ。(p. 230)

苦しみには,ある種のおかしみがくっついているものである。当然,面白エピソードなんかもある。

オリンピック・ランナーの瀬古利彦さんに一度インタビューをしたことがある。現役を退いてS&B チームの監督に就任した少しあとのことだ。そのときに僕は「瀬古さんくらいのレベルのランナーでも,今日はなんか走りたくないな,いやだなあ,家でこのまま寝てたいなあ,と思うようなことってあるんですか?」と質問してみた。瀬古さんは文字通り目をむいた。そして〈なんちゅう馬鹿な質問をするんだ〉という声で「当たり前じゃないですか。そんなのしょっちゅうですよ!」と言った。

私は,瀬古利彦氏があまり好きではないが,鳩が豆鉄砲をくらったような丸い目玉をした瀬古氏の描写が,目に浮かぶようで面白い。あまり好きではないというのは,初期の印象である。1978年の福岡国際マラソンで,早稲田大学の学生で旨に「W」のマークをつけた瀬古は,トップを走る宗茂宗猛兄弟の後ろにぴったりとついて彼らを風除けにして走りながら,最後のスパートでまんまと2人を抜き去り,優勝したからである。もちろん,勝つための戦略としてはアリなのだが,当時の私には正々堂々としていないように思えたのである。

この本を読んでいると,著者が語ることに対して,「自分もそう思う」とか,「いやそれは自分の場合は少し違ってこう思う」などというように,読者の私自身の考えや体験を話したくなる衝動に駆られた。どんどん溢れてくるのでノートに書きつける必要があった。これは,村上春樹が,想像ではなく,地に足をつけて語っているから起こったことなのではないかと思うのだ。驕る{おごる}ことなく,謙る{へりくだる}こともなく語られるひとつひとつの言葉が非常に身近に感じられる。こういうことは,一般論では起こらない。一般論というのは,誰にでもそれらしく応用ができそうなことだが,実例が1つもないからである。もしかすると誰にも当てはまらないかも知れない。それよりも,きわめて個人的で一般的でない体験の方が貴重である。汎用性はないかもしれないが,確実にひとりの個人で起こったことだからである。

状況が限定されればされるほど,逆説的ではあるが,より色々なものに応用がきくものである。走るという,しごく単純で限定的なことから,人生における多くのことを学びとることができるというのも確かに言えることなのである。

Posted by n at 2011-11-08 23:51 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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