最近,遺伝子の中に組み込まれている「我が子を守れ」プログラムが発動したことを強く感じる。
特に命の危険があった訳ではない。先日マンションの高層階の廊下を歩く機会があった。子どもは背が低いから手すりの外側が見えないが,大人は下の地面まで見渡せるので,金玉が (!?) 若干ながら収縮した。胸の奥がキューとなりながら,「もしここから子どもが落ちたら自分はどうするだろうか?」と考えたのである。もしも落ち始めたなら,自分も飛び込んで,子どもを抱えて背を下にして地面に衝突するのがよいのか,衝突する直前に水平に投げ飛ばして落下のベクトルの方向を変えるのがよいのか,などのことを。
若いころ,女性を好きになって,「彼女のためだったら死ねるかも」と思うことがあった。ここで言う「死ねる」というのは,彼女に命令されて死ぬということではない。誰かに命令されて死ぬのは間違っている。彼女に命の危険が迫った時に,自分の身を呈して守り,その結果死ぬことになっても構わないという意味である。
結婚してみて,やはり「彼女のためだったら死ねるかも」と思ったことがある。しかし,あくまで「死ねるかも」であったことをここで告白しなければならない。別に告白する必要はこれっぽっちもないのだが (瀑)。
子どもが生まれ,パパが世界で一番好きだと言い (nlog(n): パパはモテ期に突入),ずっとまとわりついて,やることをいちいち邪魔し,遊び疲れて眠っている姿を見ると,「この子のためだったら死ねる」と本当に思う。「死ねるかも」から「かも」が取れてしまったのである。
これは今までになかった感覚で,子どもを持って育てているうちに新しく出てきたものなのだ。とても不思議な感覚である。本能のひとつなのだろうが,元から備わっているものにしては現れるのが遅すぎる。どちらかと言うと,遺伝子の中に組み込まれていて眠っていたプログラムが子どもが生まれたと同時に発動し,育てていくうちに動作の範囲を広げていっているような感じなのだ。今では体の隅々まで行き渡っている。子どもを持たなければ,おそらくはこんなものは一生発現することはなく,そんな感覚があるのも知らなかったに違いない。
種の保存という意味で考えれば,自分のこれから生きられる期間よりも子どもが生きる期間の方が断然長いので,年齢の小さい方を優先して生かすのが妥当なのかも知れない。しかし,親自身の生命維持ができなければ子どもも生きていくことはできないので,親が身を犠牲にすることにそれほどの妥当性はない。さらに,子どもなら他人の子でもいいのかと言われると,それも違う。人間という種の全体を考えるならば,自分の子でも他人の子でも,親は自分の身を犠牲にすべきだろう。しかし,私自身の感覚で言うと,他人の子どもはどうでもいいのだ。「人間という種」が重要なのではなくて「自分の遺伝子」を絶やさないことの方が比較にならないくらい重要だということである。
子どもというものは,どの子も確かに可愛い。なぜ可愛いと思うのか。未熟だからか,懸命だからか,弱いからか,純粋だからか,言うことをきかないからか (笑),などと考えても納得のいく結論は出てこない。この「可愛い」という感覚は,「人間という種」を保存するために組み込まれた感覚だからだろう。しかし,この「可愛い」も自分の子と他人の子では大きく違う。雲泥の差があるのだ。すなわち,自分の子の可愛さは「雲」,他人の子は「泥」である。自分の子が他の子どもたちと泥んこで遊んでいるのを見ると,雲は泥まみれである。どうでもいいけど,気が済んだら早く洗え。
子どもを育てているうちに,「生まれ,産み,育て,死んでいく」という命の大きな流れに自分も飲み込まれたのだなと感じる。この場合の「大きな流れ」というのは,上で述べたことと矛盾するようだが,「自分の家系」のことではなく,「人間の種」の保存としての流れのことなのである。若いころは,将来的に子どもを持つことはないだろうから,「死んでいく」だけでいいと思っていた。しかし,子どもを持ってみると「産み,育て」が追加され,心の底から沸きあがるような新しい感覚が現れてきたのである。
Posted by n at 2012-01-12 22:18 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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