シャーロット・ランプリング主演の映画「さざなみ」を観てきた。夫に対する疑念は日を追うごとに確信に変っていく。しかし唐突な終わりに消化不良感が残る。ネタバレ注意。
久しぶりに銀座に行ったので (nlog(n): Apple Store 銀座へ Mac を持っていく),何か銀座らしいことをしてから帰ろうと思う。とは言っても銀座価格はおっかないのでリーズナブルな方向で。去年はパウリスタでコーヒーを飲んだっけ (nlog(n): 銀ブラしたのにガセだとか)。ぶらぶら歩いているとシネスイッチ銀座があった。前回シネスイッチ銀座に来たのは12年前だった (nlog(n): 真珠の耳飾りの少女)。月日の経つのが早すぎる (遠い目)。
上映中なのは「さざなみ」と「グランドフィナーレ」。どちらも老人が主役の映画である。ハズレは引きたくないが…どちらにするか迷う。「グランドフィナーレ」は年齢制限があるので,裸のシーンが期待できる (\(^o^)/)。それにも興味はあるが… かなり迷って「さざなみ」に決定。シャーロット・ランプリングが主演だったからである。シャーロット・ランプリングが出演している映画はエンゼルハート以来なので (nlog(n): 途中からジャンルが変わる映画),29年ぶりである (さらに遠い目)。
観覧料は1800円。しかもチケットは実にそっけない。有楽町のガード下まで行けば,絵入りの前売り券が1450円くらいで買えるはずだが,もうすぐ始まってしまうので諦める。全席指定だが,ガラガラなので好きな席が選べた。
「さざなみ」の原題は「45 Years」である。45年間。これが何であるかが映画の核心になる。しかし,邦題にそのまま「45年間」とつけても,観たいと思う日本人はいないだろう。「さざなみ」とは映画の中の妻の心理を描写したものになっていて,営業的にはこれが正しいし,よく考えられた邦題だと言える。映画『さざなみ』 公式サイトは予告編がいきなり表示されるウザさがある。
映画館の入口付近には,新聞雑誌に掲載された映画評がいくつも貼りだされていた。ほとんどの映画評にはネタバレが含まれているという,あまり見かけない宣伝方法である。このブログ記事でも盛大にネタバレをするので,未見の方はご注意を。
映画が始まると,「カシャリ,カシャリ」という音とともにスタッフクレジットが切り替わって表示されていく。この音はどこかで聞いたような… そうだスライド映写機だ。今どき「スライド」が残っているのはマイクロソフトの PowerPoint くらいで,その映写機の音だと言っても知っている人はいないのでは? と思ったが,見回したところ観客は年配の方が圧倒的に多く,心配する必要はまったくなかった。
ケイト (シャーロット・ランプリング) とジェフ (トーマス・コートネイ) は長年連れ添った老夫婦である。子供はおらず,犬を飼っている。週末の土曜日に結婚45周年のパーティーが予定されている。映画はその週の月曜日から土曜日までの6日間の物語である (あらすじ 今週末見るべき映画「さざなみ」 (3/3)|アート|Excite ism(エキサイトイズム))。
ケイトは元教師でまっすぐに夫を愛している。ジェフもその妻を愛しているが,そのジェフのもとに一通の手紙が届く。それはスイスの警察からのもので,ケイトと結婚する前につき合っていた女性カチャの遺体がアルプスの氷の下から見つかったというのだ。ミイラ化した状態で。結婚はしていなかったが,夫婦だと言ってあったので連絡が来たのだろうという。手紙を読んだ夫が「ぼくのカチャ」とつぶやく。妻の猜疑心が芽生える瞬間でもある。
当初,夫は結婚記念パーティーに乗り気ではなかった。ケイトが計画を進めている。45年というのは中途半端な年数であるが,40周年のときは夫の手術でできなかったからだった。ケイトはパーティー会場を見に行ったり,パーティーで流す曲を決めたりしている。夫の好きな曲である。何の曲が好きか頭に入っている。ソラで言えるくらいに。
一方で,ジェフは夜中に起きだして屋根裏部屋をあさるようになる。元恋人カチャの思い出の品を探しているのだ。それでも,ケイトと久しぶりにダンスをしたりセックスをしたりする。もう若くはないが夫婦であることの喜びはあるのだ。
夫の行動を不審に思ったケイトは,夫が不在のときに屋根裏部屋に上り,夫が見ていたものを探す。旅行を記録したノートやスライドである。ケイトはスライドにカチャの姿が写っているのを見つけてしまう。観客はタイトルバックで流れた音をここで再び聞くことになる。若いカチャ。思えば,夫は写真をやめてしまっている。自分の写真はないのに,元恋人の写真は残っている。ここでケイトの夫に対する「さざなみ」のような疑念は確信に変わっていく。
ここで言う,妻の夫に対する「疑念」とは何か。「猜疑心」とは何か。それは,元恋人に対する嫉妬ではない。50年前に死んだ夫の元恋人の亡霊と戦っているわけではないのだ。「疑念」というのは,自分が元恋人の身代わりだったのではないかというものである。夫の好きな曲,プラターズの「煙が目にしみる」は元恋人を思った曲であり,久しぶりのセックスも彼女を思ってしたのではないか。セックスのとき夫は目をつぶっていた。「目を開けて」とケイトは言う。想像ではなく,目の前の自分を見て欲しいということだったのだ。この45年間,妻は夫だけを見てきた。しかし,夫が見てきたのは妻の姿ではなかった。妻の存在は,屋根裏でスライドを写しだしたときに使ったスクリーン代わりのシーツに過ぎなかったのだ。夫が見ていたのはシーツではなく,スライドに写った人物だったのである。この点で,スライドのシーンは非常に象徴的である。
「45年間」が重くのしかかる。夫が元恋人を見続けていたのだとしたら,妻の45年間は何だったのか。原題の「45 Years」が示すのはその重みである。
この6日間で,乗り気でなかった夫の心はスピーチをするまでに変わり,これとは逆に,パーティーの計画を進めてきた妻は出席するのがバカらしくなる。夫は自分がしてきた妻への仕打ちに気づくことなく感動の涙を流すが,妻はその無自覚な姿に怒りを覚え,映画は幕を閉じる。
さて,スライドのシーンでもうひとつ気になったことがある。写っていたカチャのお腹が大きかったことである。しかし,妊娠したまま険しいアルプスに登るとは思えない。アルプスにはジェフとカチャに加えポーターが付き添っている。そのくらい険しいのだ。また,現在のジェフの体力では登れないくらいにも険しい。とすれば,カチャはその子を産んでしまっているはずである。乳児を置いて2人で山登りというのも考えにくいが,目立つほどお腹が大きいまま登山というのもこれまた考えづらい。
もしかして,これからパーティー会場にカチャの子供が来て大変なことになるのかとか,近所の子供だと思っていたら実はカチャと夫の子だったりとか,そんな展開になるかと思っていたときに,映画は終わった。「えっ,これで終わり?」というくら唐突に終わってしまう。そこが非常に残念。カチャのお腹は,ケイトの怒りをピークに持っていく材料としては有効だったが,観客に無駄な想像をさせるという点で不要だったのではないかと思う。
もうひとつ,ベッドでケイトが夫に「もしカチャが生きていたら結婚していた?」と尋ねるシーンがあるが,最初に夫は拒む。「そういう仮の話は嫌いじゃなかったのか?」と。それでもしつこく聞いてくるので,根負けして「そのつもりだった」と答えるのである。そしてケイトは「やっぱり」と思うわけだが,ちょっと待ってくれ。真剣につき合っていたなら,結婚を考えるのはごく自然のことではないのか。しかもケイトと出会う前のことだ。だから,ケイトにここで問いたださせて「やっぱり」と思わせるシーンはやり過ぎだと思うのだ。筋違いだからである。
ブログ筆者である私には,これまで付きあった女性の思い出の品はほとんど残っていない。しかし,今の私自身を形作っているのは彼女らであることも事実である。だから,この映画のようなことを言われても困るのだ。彼女らなしで今の自分はないからである。どうでもいいことだが,私の中では,シャーロット・ランプリングはジョディ・フォスターにちょっとかぶり,友人役のジェラルディン・ジェームズはメリル・ストリープにちょっとかぶる。
Posted by n at 2016-04-27 04:31 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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