世の中にはうまく説明できないことがある。しかし,最終的な目的が「説明すること」ではなく「理解してもらうこと」であれば,何とかする手はある。
もしも,子供が純粋に「なんで人を殺してはいけないの?」と質問してきたら何と答えるだろうか。「そんなことも分からないのか!」とか「いったいお前は何を考えているのだ!」と感情的に答えるのはいけない。答になっていない。「人の命は大切だから」もダメだ。「なんで人の命は大切なの?」と訊かれてしまうからだ。
考えてみたが,答が見つからない。しかし,最終的な目的が「説明すること」ではなく「理解してもらうこと」であれば,答え方はある。私は次のように答えたいと思っている。
なぜ人を殺してはいけないか,という質問には直接答えることはできない。しかし,あなたが死ぬときには,その答を知ることになるだろう。
その子供に想像力が欠如していなければ,本当に死ななくてもよい。「自分が死ぬこと」が想像できればよいのだ。しかし,もしも相手の想像力があまりにも乏しい場合は,簡単に答えてしまうのがよい。
自分が死ねば分かる
私はこれまで,自分が知っているものは他人に説明することができると思っていた。しかし,そうではなかった。私は,「なぜ人を殺してはいけないか」を知っていたが,説明できるものではなかった。
説明できる | 説明できない | |
知っている | 1 | 2 |
知らない | 3 | 4 |
今までは「1」しかないと思っていたが「2」ということもあるのだ。自分が知らないことを相手に説明することはできない。「3」は知ったかぶりの領域である。「3」をしないように気をつけたい。
他人に説明できないことというのはある。しかし,説明できなくても,相手に理解してもらうことはできることもあるのだ。
Posted by n at 2006-08-05 22:49 | Edit | Comments (2) | Trackback(0)
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はじめまして.
Posted by: Em at August 06, 2006 05:19うまく説明できないことはいろいろあるのかもしれませんが,強い,というか,原初的な感情に基づいたことの場合が多いような気がします.言葉よりも前からあるからでしょう,きっと...とても好きな人にその気持ちはうまく説明できません.
なぜ人を殺してはいけないか,某テレビ番組で有名になりましたね.これなんか,最も原初的な感情の一部ではないでしょうか.聞いてきたのが自分の子供だとちょっとたじろいでしまうかもしれませんが,気迫を込めて,「お前を殺してもいいか」と尋ねるのが一つの回答かもしれません.それでも平然としているのなら,その人の最も身近な人(親か,子供か,恋人か...)を指して,「殺してもいいか」と聞く.尋ねて *みる*,聞いて *みる* では意味がないと思います.それはウソだからです.真に尋ねる.全部の問いに平然としていられるとしたら,それはその人が心情的に天涯孤独の人ということでしょう.そういう人に殺してはいけないことを理解しろといっても無理だと思います.つまり,殺してはいけないことを教えるということは,一人ではないこと,自分が愛されていること,自分を愛してくれている人がいること,そういう人たちを自分も愛していること,それを *感じられる* ようにしてやること,そういうことだと思います.
Em さん はじめまして。
Posted by: n at August 06, 2006 22:39> とても好きな人にその気持ちはうまく説明できません.
確かにその通りです。「なぜ私のことが好きなの?」と訊かれて,簡単に答えられるようなら,本当に好きなのではないのでしょうね。
偽りの愛に使えそうな言い訳にも聞こえてしまうのが難点ですが…。