「お金で買えないものはない」というのは,その人のものの考え方を表している。その人にとっては,あなたという存在も交換可能なのだ。単にそれだけのことである。
「お金で買えないものはない」と言う人がいる。果たしてそれはどうなのか。「いや,お金で買えないものもある。あれとか,これとか…」と,色々な例を思い浮かべたりする。そこまではよい。しかし,それで「お金で買えないものはない」と言っている人を説得しようとしても無理である。相手は考え方の違う人だからだ。「金より大切なものなんて存在しない」に関しては,明快な反論が 2ch でされている (過コピペ@2ch 俺は今、本物の論破を見た 他 【ちょっと昔の笑えるコピペ】
pya! 論破)。
「お金で買えないものはない」で有名なのは堀江貴文氏の言だろう (顔文字ホリエモン劇場−お金で買えないものはない)。しかし,彼は,会社名 On the edge のカタカナ表記として「オン・ジ・エッジ」ではなく,インパクトだけのために意識的に「オン・ザ・エッジ」とするぐらいであるから,恐らくはネタであるので,丸ごと信じてはいけないのだが。
以下では「お金で買えるもの」について考える。
お金で買えるものというのは,それが交換可能であることを意味している。直接的には,「それ」と「お金」が交換できるということだ。さらに,その「お金」は,それの代替のものにも交換できるし,さらにはまったく違うものにも交換され得る。
つまり,「お金で買えないものはない」と言っている人は,周りの物や人を,別のものに交換できるものだと見ているということなのだ。それだけである。そういう物の見方に賛成できるかどうかは別の議論であるし,交換できるだけのお金があるかどうかというのも,別の議論である。
お金で買えるか買えないかという問題は感情的,というよりも感傷的,になりがちである。「お金があればあんなことができるのに」とか「お金がないからこんなことに」などと考えてしまうからだ。さらには,お金があれば幸福かという議論になったりして,話がややこしくなる。それは別の話だということは分かっているのに,目頭2:50が熱くなってきてしまうというのは別の話である。
要は何が言いたかったかというと,それにいくらの値段がつけられるかということを除けば,「お金で買える」ということは「交換できる」ことと等価であるので,買えるかどうかを考えるのではなく,交換できるかどうかを考えた方がすっきりするということである。そうすれば生活と直結するような切実な感じは切り離して考えることができるようになる。
それは交換できるものかどうか,あるいは何かで代用できないか,そういう観点からものを見直すのは意味がある。それは,お金で買えるかどうかを考えるよりもずっと建設的であるように思えるのだ。
ちなみに,アンパンマンの顔は交換可能である。
Posted by n at 2009-04-06 22:44 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
Master Archive Index
Total Entry Count: 1957