「三百六十五歩のマーチ」では,3歩進んで2歩下がると言っている。2歩下がるときにも2日かかっている。それは,下がったかどうかが分かるのが,ずっと後になってのことだからだ。
私は,人生といものは歩くものだと常々思っている (nlog(n): 人生は障害物歩だと考えることにした,nlog(n): 片足では遠くまで行けない)。
水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」も,人生は歩くものだと歌っている (三百六十五歩のマーチ 水前寺清子 歌詞情報 - goo 音楽)。この歌詞について2年前にも書いた (nlog(n): 二歩さがるときには何日かけるのか)。1日に1歩ずつ進む。3日あれば3歩進める。ところが順調なばかりではないので,進んだ後に2歩下がってしまう。問題は,2歩下がるときに何日かけるかだった。これを記事にしたときには,2通りの解釈をあげて,どちらかが分からないとしていた。あれから2年,考え続けた結果,ひとつの答に到達した。
「2歩下がるときにも2日かかる」である。
なぜなら,歩いているその時点では,自分が下がっているかどうかは分からないからである。ずっと後になって,振り返ってみたときに「あの時は下がってたな」と思うことができる。当時は前に進んでいたと思っていたが,結果的にはあの方向は前ではなかった,と思い出すのである。つまり,ここでもうひとつ分かることがある。
「下がるときは,後ずさりではなく,後ろを向いて前進している」ということだ。
私は後ろ向きな性格をしているので,前を向いたまま後ろへ後ろへ下がってしまったり,立ち止まったまましばらく動かなくなってしまうことがままあるのだが,少なくともこの「三百六十五歩のマーチ」では,自分の向いている方向は別にして,1日に1歩,前に歩いていると歌っているのだ。
人は誰も,まっすぐ前に進んで,下がるときはもと来た道をそのまま戻る,というようなことはしない。歌では,3歩進んで2歩下がると単純化しているが,進むにも色々な方向がある。もしも横道にそれるようなことがあって,その時点では停滞しているように思えることであっても,後からよく見れば幅を広げることに役立っていることもある。下がったと思って嘆くのは時期が早すぎる。
小さくても1歩進むことが大切なのだ。その1歩が小さければ小さいほど遠くへ行けるというのは逆説的だけど本当だ (ちょっとでも、やるからやる気がでるのはどうやら本当らしい - くるえるはてなくしょん)。
Posted by n at 2009-05-01 05:18 | Edit | Comments (1) | Trackback(0)
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なぞなぞがありましたよね。
南に10歩いって、東に10歩いって、北に10歩いったら元の場所でした。さてどこでしょう?
ありゃ、方向すらも定義次第ってことじゃん!?
う〜ん、お題がヘビーなのでコメントここまで。
Posted by: おお at May 01, 2009 13:05でもこの歌はパンチがきいてていいよね。
北の国からを思い出す。なんだっけ?この歌シンミリ歌うとUFOがくるんだっけ。UFOが出そうな森とか夜には三百六十五歩のマーチが似合うのはそのため。