祖母が誤嚥性肺炎で入院した。入院先の医師は,現在の医療の考え方にのっとった対処をしてくれている。しかし,それが幸せとは限らない。というよりも,誰も得をしない状況を作っている。緩和医療の必要性を実感した。
私の祖母は,生きに生きて現在 101 歳。介護は母が行っている。いわゆる「老々介護」の状態である。
祖母の痴呆が進んだ結果,介護する側にとっては,死んでしまうのは悲しいが,手間のかかるまま介護し続けるというのもまた辛いという,どちらをとっても苦しい状況となっている (nlog(n): 育児と介護を支えるもの)。痴呆というのは序々に進行する。痴呆の本人としては,周りの状況が分かっている時間と,分からない時間があり,分からない時間の方が少しずつ増えていく。しかし,孫やひ孫が遊びにくると,それまでぼんやりしていたものが,急に認識できるようになったりする。人間とは不思議なものだ。このときは目の輝きが違って生き生きとする。「目に火が灯った (ともった)」という表現がぴったりくる。
その祖母が,体温が高くなったので医者に診せたところ,「誤嚥性肺炎 (ごえんせいはいえん)」との診断で入院することになった。誤嚥性肺炎というのは,飲み込んだものが胃に行かず,肺に入ることで細菌が繁殖し発生する肺炎である (社団法人日本呼吸器学会 - 誤嚥性肺炎)。
入院して治療を受けているが,この治療では誰も得をしないことが分かった。
医師の処置は,現代医療の考え方にのっとったものである。食べ物が肺に入るのが原因なので,栄養は口からではなく,点滴によって血管から入れる。固形物を食べないため,便はオムツで対応,尿のために管をつけている。しかし,これにより,これまでやってきた食事とトイレの刺激がなくなったため,痴呆がさらに進行した。この状況が長期化すると,本当に口からものが食べられなくなってしまう。医師は「誤嚥を防止するためのトレーニングをしてはどうか」と言うが,この痴呆の程度でそれが可能なのかは不明である。
現代の通常の医療の考え方は,病気を治療し,病気の原因を取り除くというものである。この考え方が間違っているとは思わない。延命につながることだからだ。しかし,この延命は単調な,だらだらとしたものになる可能性があるのだ。高齢者の場合,うちの祖母の場合は特に,これになりつつある。
この治療は誰も得をしない。病院としては,ベッドが1つふさがることで,新規の患者を受け入れることができなくなる。本人にとっては,何の刺激もない毎日を送るだけになる。毎日顔を合わせるのは見知らぬ医師と看護師で,孫やひ孫は見舞いに来ない (!!私のことだ!!)。家族にとっては,痴呆が進み,医療費がかさむ。結局,患者本人とその関係者は嬉しいことがひとつもない。誰も間違っていないのにだ。
この治療で「得」とは言わないが「納得」しているのは,生温かい目で見守る何の関係もない第三者であろう。間違ったことをして死なせでもすれば「医療ミスだ!」「あの病院は間違った治療をしている!」と糾弾するだろうし,家族が早く死なせてくれと言えば「人の命を何だと思っているのだ!」と攻撃するだろう。金は出さんが口は出す。まったく関係がない人が,これに関しては一番強い意見を持っているこの状況。どういうことなのだろうか。
最近は「緩和医療」という考え方があるようだ (緩和医療 - Wikipedia)。うちの家族を含め,これからの超高齢化社会には,高齢者に特化した緩和医療というものが必要だろう。「必要だろう」ではなく「絶対に必要」だ。高齢者のための緩和医療としては,費用別に「松」「竹」「梅」くらいの選択肢があるといい。お金のない高齢者もいる。
話は戻って,うちの祖母については,病院の考え方を尊重して,しかも本人と家族のためにもなるように,「肺炎は治療してくれ,回復したら自宅で介護させろ,再発したら連れてくる」の方向で相談することにした。
自宅で医師不在で死ぬと,警察の検視が必要だそうで,これがまた面倒。医師の往診など,急変の場合の対応も考えておかなくてはならないようだ。
2012年12月8日追記:
祖母は逝きました (nlog(n): ばあちゃんが死んだ)。
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