読むだけでこんなに大変なのに,それを書くというんだから大変なことだなと,すごい本を読むたびに思う。書き手と読み手の間には大きなギャップがある。
分厚い本を目の前にしたとき,読書好きは「この中に物語が詰まってるんだ」と思ってワクワクするらしい。私は「これをこれから読むってのはうんざりだな」と,よく思う。
そしてさらに私は,「読むだけで大変なのに,それを一文字ずつ書くというのだから,よくもまあ作家はやるな」と思うのである。書くのにどれだけの時間をかけているのかを考えると,気が遠くなる。書くのには時間がかかるが,読む時間は一瞬なのだ。
極端なのはマンガである。漫画家が1ページを仕上げるのに数時間かけたとしても,読者は数秒しか見ない。そのくせ,下書きが載っていたりすると (【冨樫化?】週刊少年ジャンプ連載、『銀魂』が下書き状態で掲載され話題に : はちま起稿),「なんだよ下書き載せんなよ!」などと怒ったりするのだ。
書くのにかける時間,読むのにかける時間を考えると,書き手と読み手の間には大きなギャップ,隔たりがあることに気づく。
読み手と書き手のギャップは時間だけではない。昨日の記事を書いていて思ったのは,温度差である。ここでの「温度差」というのは,書き手が熱く語りたいのに対して,読み手は驚くほど冷たいということを意味する。書き手の喜びは読み手に伝わらない。伝わらないどころか,苦痛に感じさえするのだ。例えば,著者は「こんな規則があった! これとこれをまとめると統一的に把握できるぜ! スゲーだろうヒャッハー!」という喜びがあるに違いない (あくまで想像)。ところが,その美しい理論も,読者にとっては苦痛でしかない。まとめられて,情報が圧縮されればされるほど,それを飲み込むのはどんどんつらくなっていくのだ
(nlog(n): 江川泰一郎「英文法解説」は上級者向きの文法書)。
このギャップに,何らかの対価を求めようとすると話がややこしくなる。ややこしくするのは,そこに発生する何らかの「利益」である。最近の話題では,書籍のスキャン代行や (東野圭吾氏や弘兼憲史氏が自炊代行業者を提訴 | スラッシュドット・ジャパン YRO),デジタル専用DVDレコーダーの私的録画補償金の問題がある (東芝の私的録画補償金訴訟、知財高裁でも SARVH に勝訴 -- Engadget Japanese)。そんな中で,ストールマンは昔から一貫して常にフリーで在り続けようとしている (ストールマン、現代の電子書籍に抗議 企業が規定した読書体験しか得られない - ZDNet Japan)。彼がいたからこそフリーな世界がこれだけ広がっているのだ。
ブログについては,書き手と読み手のギャップはあるにせよ,まったく問題にならない。もともと駄文だ (泣) というのは横に置いておけば,書き手は「これが書きてぇ!」と思って書いているので,書くという苦労はその暑苦しい思いでキャンセルされる。読み手は,普通な「ふーん」と思っているだけなので,時間を食う分マイナスである。しかし,たまに「おもしろ!」というのに出遭うからキャンセルされるのである。いずれにせよ,書くのも自由,読むのも自由で,間に金銭が入り込んでいないのがいいのだ。
ギャップがあるのは悪いことではない。女と男の考え方にも大きなギャップがある。ギャップがあるから悩むこともあるが,喜びもあるのだ。女は共感して欲しいだけなのに男は解決しようとするからダメなんだと言って,男が女の考え方に合わせてモテようとするなどナンセンス! 必要なのはギャップを埋めることではない。双方でそのギャップを見つめることなのだ。「双方で」というのが難しいことなんだが。
Posted by n at 2011-12-22 23:55 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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