一輪車の練習をしていたら盛大にコケた。擦過傷が顔にデケタ。
一度は乗れるようになった一輪車だが (nlog(n): 自分の身長にあった一輪車が欲しい),久しぶりに乗ってみたらこれが下手になっている。上手になるのには時間がかかり,下手になるのはすぐという理不尽な非対称性。年齢をとるごとにこの非対称性はますます増大していく。
もともと,「乗れるようになった」とは言っても,乗り出しの時に手すりが必要で,20 m くらい直線をこいで行けるというくらいなので大したことなかったと言えばその通り。しかし,それでも数か月乗らなかっただけでさらにダメになってしまうのだから悲しいものがある。これは体を使うことに対して顕著である。ところで,体を使わない技術というのはあるのだろうかと改めて考えてみれば,ないのであった。これが。頭も体の一部であるから,考えることも体を使う技術のひとつなのでもうダメぽ。
さて,このままではいけないと,何度か試すうち,乗り方を思い出してきてユラユラと進めるようになってきた。10 m くらいはいける。ヨロヨロして倒れそうになったとき,つかまった木の枝が「ポッキリ」。予想していた支えを失った体は地面とコンニチハ。地面はアスファルトだったものだから,ギザギザしていて「ザリッ」と食い込むようになっているのである。タイヤのグリップはいいかも知れないが,人の肌とは相性がよくない。目を開けたときに自分の目線が虫くらいに低くてビチクリした。大体,一輪車というのは転ぶためにできているようなものだ。自転車は左右にしか倒れないが,一輪車は前後左右どの方向にでも倒れることができる。倒れ放題だ。そのくせ少し乗れるようになっても全方向には進めず,前にしか進めないとはこれいかに。
私はもともとがフランケンシュタインのような風貌なのに,傷が入ったおかげでますますそれらしくなってしまった。少女と心を通わすところまでフランケンと同じである。違うのは少女が我が子であることだけだ。
血が出たので一緒にいた娘は心配してくれた。「パパだいじょうぶ?」ありがとよ。その気持ちだけでご飯3杯いけますよ。冷やした方がいいからと氷を持ってきてくれたり至れり尽くせりである。ところが妻の反応がそれほどでもない。
妻「ほら,ちょっとじっとしてて」ちょんちょん
私「いっ…っ,もう少しそっとやってもらえないかな」
妻「はいはい,どーせ私は乱暴ですよ」ぐりぐり
私「ちょっ,まっ,あぁっ」
妻「まったく,意気地がないんだから」
みたいな嬉し恥ずかしウフフな展開を期待するよね? マンガでよく見かけるし。マンガで見かけるということは,それは漫画家の願望でもある訳で,つまりありがちだけど妄想の具現化でもあるわけだ。ところがだ,ところがだよ。「あら,どうしたの?」って,反応薄くね?
というわけで,顔面の怪我について書いていたら,いつの間にか愚痴になってしまっていた。これはあれだ,体の傷が開いてしまったので,せめて心は癒されたかったということなのだ。それも敢えなく失敗と。オッサンの愚痴は猫も食わないというやつだな (そのようなことわざはない)。
Posted by n at 2015-02-23 23:21 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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