マーク・ピーターセン著「続・日本人の英語」は,日本のことを深く知るアメリカ人による,英語の,さらにはアメリカ人の考え方の,優れた解説である。作者の体験による記述は感動的でさえある。
先日,マーク・ピーターセン著「日本人の英語」を読んだので (nlog(n): 「日本人の英語」に出てくる「電子レンジの猫」),続けてその続編である「続・日本人の英語」を読んでいる。前作にも言えることなのだが,この本は「日本人はここを間違いやすいから注意」ということが書かれているのではなく (それも書かれているが),「日本人とアメリカ人の違い」「英語を使う人間はどうやってものを考えるか」に焦点を絞ってある。ピーターセン氏の経験をもとに書かれており,読んでいると,その映像を生き生きと思い浮かべることができ,胸を打つものがある。
氏の日本を愛する気持ちがハンパなく強烈で素晴らしい。立場を逆に考えれば,私たちが外国語を学んでその世界に入っていけたとしたら,どんなに豊かな感覚が味わえるのか,それを垣間見させてくれるものにもなっている。
小津安二郎の「東京物語」の中で氏がもっとも感動した台詞をあげ,その英訳について次のように述べている。
驚いたことに,この部分は次のようになっていた。
京子「いやァねえ,世の中って……」
Kyoko: Life is disappointing, isn't it?
紀子「そう,いやなことばっかり……」
Noriko: (smiling) Yes, it is.私が驚いたのは,原台詞と余りにも違うところだけではない。それより驚いたのは,その日本語を完全に理解しているのに,私にはよい英訳がまったく思い浮かばないことである。「いやァねえ」と「いやなことばっかり」に当てはまる英語はないし,「世の中」は,この場合,life と the world の間くらいで,いずれにしても違うという感じだから,どうしようもない。それぞれの言葉の裏に流れている気持ちが分かれば分かるほど,ぴったりくる英語がない,という気持ちになることが多い。(p. 112)
私はこれを読みながら,こんなにも深く日本を理解してくれる外国人がいることに感動し,涙が出そうになった。ピーターセン氏はアメリカ人であり,日本語で本を書いているわけだが,「日本語」を理解しているだけではなく,「日本人の心」を理解しているのだ。しかも,アメリカ人の感覚で日本を理解しているのではなく,日本人の感覚になりきっている。ハリウッド映画でよく見かけるような,中国が微妙に混じった日本,外側から見た日本ではなく,日本の内部から見た感覚である。そこに「英訳できない」ほど,どっぷり浸かっているのだ。英語の達人は,「英語の上達を望むなら英語は英語のままで考えなさい」と言う。話としては分かっても,意味がよく分からなかったが,恐らくそれは,「その英語を理解しているのに,日本語訳が思いつかない」という境地なのだろう。
英語をマスターしたいという私たちが馬だとしたら,ピーターセン氏は私たちを川に連れて行く人間ではない。連れて行って「水を飲め」とは言わない。彼自身も馬で,違うのは川の対岸にいることだけなのだ。そして,水を飲んで見せて,「こんなにうめーよ,冷んやりしているところがさらにウマー (だじゃれ?)」と,その姿を見せてくれるのである。
本文中には,「英語でのその違いは,日本語ならこれに近い」という記述が沢山あり,非常に分かりやすい。例えば,英語では,1つのことを言う場合,フォーマル度によって2通りの書き方があるそうで,ラテン系の語を使えばフォーマル度が高く,アングロサクソン系の語を使えばフォーマル度は低くカジュアル度が高くなるとのこと (ここで言う「ラテン系」は,「ラテン系のノリ」のそれではなく,ラテン語から輸入された語のことを示す。「ラテン語系」と考えた方がいいかもしれない)。「再考する」であればラテン系の「reconsider」,「考え直す」であればアングロサクソン系の「think it over」といった表現になる。これは日本語の「漢文から輸入された語の方がフォーマル度が高い」ことに対応している。他の例としては,「hesitation (ためらうさま)」をあげている。対応する日本語としては「躊躇している」と「ためらっている」,さらには「うじうじしている」「もじもじしている」「ぐずぐずしている」などのバリエーションがある。実に的確で分かりやすい説明である。もし逆に「『うじうじ』と『もじもじ』の違いを外国人に説明してくれと言われたら?」そう想像してみて,あまりの難しさに眩暈がした。
以前,ラジオのフランス語講座を聴いていたときに,講師の先生が「フランス語の『スィ』は日本語の『し』と違うことに気をつけてください。『しらすぼし』を『スィラスボスィ』と言ってみれば分かります」と解説していたのを思い出した。あの先生は何という名前だったっけか (→石井晴一先生でした (石井晴一 - Wikipedia))。
さて,この「続・日本人の英語」には,恐らくはあまり言いたくないであろう,アメリカ人のダークな側面についても書かれている。そこがまた素晴らしい。ダメな点も,1つの特徴としてあげているのだ。前作に比べ,アダルトな内容である。例えば,「the」の使われ方について,次のような記述がある。
"the Japanese" という表現には,すべての日本人を,一人残らず,一つのものとして取り上げて構わない,それぞれ個人の差があると思わなくてよい,という前提がある。これは,日本人もアメリカ人も同じ人間集団という常識があるにもかかわらず,平気で使われる表現であるので,「愚かさによる前提」と言ってもよいであろう。(中略) 逆に,同国人に関しては,不定の Americans を使い,決して the Americans とは言わない。(中略) それは,書き手がよく知っているアメリカ国民には,個人個人の差がかなりあるということを,常に,無意識の内にでも,意識しているからである。(pp. 20-21)
白人と黒人の関係についても書かれている。
ハリウッドの映画で黒人が白人に対してどんな態度をとってもよく,どんな言い方をしてもよくなったのは,以外に最近のことである。(中略) ハリウッドでは,相手が白人なら黒人は当然口を慎しむ,という常識は,まだまだ根強く固持されていた。結局のところハリウッドは,1960年代に入ってケネディ兄弟とキング牧師の三人の暗殺,それからベトナム戦争などがアメリカをばらばらに引き裂いて初めて,その常識を捨てる勇気ができたのである。(p. 107)
アメリカの「はらわた的」事実を直視し,それに触れながら英語表現の奥深さを紹介していく文章には,かなりの迫力がある。
さて,前作「日本人の英語」と,本作「続・日本人の英語」に共通していて優れている点は,「英文をその文だけ単独で説明して終わり」にしていないところである。その英文の生まれた背景を説明してくれる。英文を役者に例えるなら,その役者にぴったりの舞台を用意して,それを見せてくれるのだ。それは例えば,水着の女性がいたとすると,何もないところにその女性を立たせて「この女性はビキニを着ていますね」と説明するのではなく,ビーチを用意してくれるということに相当する。決してオフィス街ではなく。さらに,「もしもオフィス街にいたとしたら」という特殊な場合についても,「オフィス街のスタジオで撮影していたモデルの話であるなら,こう言える」というように,つっこんで説明してしてくれる。これには唸らされた (この水着の女性の話は,あくまでたとえ話であって,本作品には登場しない)。
著者の言葉に対する姿勢が,あまりに真摯すぎて,それがかえって面白可笑しくなってしまうこともある。「日本人の英語」という本のタイトルを従姉に説明するというくだりがある。
"Roughly speaking, it refers to the English very often produced by native speakers of Japanese when they are being especially strongly influenced by certain structural characteristics and patterns of thought common to their own language." (大ざっぱに言って,日本語を母国語にしている人が日本語独特の構成上の特徴や思考方法にとらわれて書いたり話したりする英語を指しているんだ。)
と,一所懸命答えたが,従姉はつまらなそうな顔をして,
"I guess I shouldn't have asked." (訊かなければよかったみたい。)
と言って,話題を変えられてしまった。(pp. 178-179)
「大ざっぱに言って」この長さである。大ざっぱが細かすぎ〜。著者のこの真面目な,というより真面目すぎる姿勢がこの本全体を通じて独特のユーモアを与えている。
この記事の最初の方に書いた「英語を英語としてあるがままに読む」ことの大切さについては,あとがき直前の181-182ページに記述があった。
本当に自分の体の一部とするためには,単に,日本語にどう訳すかという以前に,その表現の内側に入り込むことが必要だろう。それは,なぜこの表現になっているかの鍵は,文法書や辞書の中にあるわけではなく,その英語自身の中にあるからである。(p. 182)
これを読んで,ふと右脳と左脳と,それを結ぶ脳梁のことを思った。右脳と左脳はそれぞれに十分広い世界があるが,左脳からは細い脳梁を通してしか右脳を知ることができない。右脳の機能を知るには,右脳の世界に入り込まなければならないのだ。そこには左脳で表現できない機能がたくさんある。最終的には,それぞれの世界を十分に知り,さらにどちらとも行き来できるようになれれば最高である (追記→図で表現しました (nlog(n): 外国語習得のためのトレーニング方法の位置づけを書いていたら飽きた))。その究極の姿にはなれないにしても,まずは別の世界に行けるようにならなければならない。そうなる方法は,ピーターセン氏は「本当に夢中になれるものを見つけること」だという。この本は,2つの世界をつないでいるという点で脳梁的であり,もうひとつの世界を訪れるための手がかりとなっている。
そういえば,私は日本人で映画も好きなのに,『東京物語』を見ていない…。何と言うことだ。
Posted by n at 2008-10-16 01:57 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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