国立西洋美術館で開催されている「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」に行ってきた。世俗と禁欲の狭間,安心と不安の狭間が描かれている。
国立西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」が,2008年9月30日から2008年12月7日の日程で開催されている。駅のポスターで,女性の後姿の絵と「ハンマースホイ」という聞きなれない名前を見かけ,気にはなっていたのだが忘れそうだったところ,展覧会の会期が残りわずかと知り,思い切って行ってきた。
ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi,1864年5月15日–1916年2月13日)はデンマークの画家である (ヴィルヘルム・ハンマースホイ - Wikipedia)。
展示内容については,ヴィルヘルム・ハンマースホイ〜静かなる詩情〜 Vilhelm Hammershøi:The Poetry of Silence が詳しい。国立西洋美術館の前にロンドンで開かれた展覧会の模様は Vilhelm Hammershøi: The Poetry of Silence - Exhibitions - Royal Academy of Arts で見ることができる。作品に関する動画もある。
クレスチャンスボー宮殿が描かれた作品がいくつもある。薄曇りの空,肌寒い。無風に近いが,わずかに風が吹いているのを感じる。さすがに北欧の画家だけあって,絵から滲み出す寒さの表現は一級品である。私はこの冷たい空気が張り詰めた曇天の日が好きである (nlog(n): 手賀沼にドライブ)。好きではあるが,毎日そこにいたいとは思わない。
クレスチャンスボー宮殿の中や周りに人影は見当たらないが,建物は荒廃していない。つまり,人の手から離れてしまった風景ではないのだ。ゴーストタウンにはなっていない。建物の中には,カーテンが少し見えている窓もある。そこには人が住んでいることが分かる。カーテンのある部屋にも人影はない。ハンマースホイは,人の痕跡だけを描いているのだ。
解釈する上で難しいのは,カーテンなどで人の存在を暗示しているにも関わらず,その主張が弱いという点である。「ほら,人が住んでいるでしょう。分かりますか?」のように謎解き的,説明的というほど主張が強くない。だからといって,人間が誰一人住んでいないような,純粋に建築物だけを描いたものでもないのだ。人間の生身が出てくる「世俗的」な世界と,人間の存在を感じさせない「禁欲的」な世界の狭間の,ギリギリの線を渡っている。どちらかに転んでしまえば楽になるのだが,そのどちらも拒否している。
「俗」に転ぶことが楽なのは,画家も,鑑賞者も同じである。ありがたいことに,それをこの展覧会の中で体験することができる。展示室の最後の部屋には,ハンマースホイと同時代に,同じデンマーク内で活躍した画家であるカール・ホルスーウの作品も展示されている。外は寒いかも知れないが,部屋の中は暖かく,部屋の中には日が差込み,おだやかである。人間が実際にそこで生活している様が表現されている。「俗」な絵であり,見ていてほっとする。日常であることの安心感があるのだ。それに加え,画家が描きたいことと,鑑賞者がそこから読み取りたいことが一致しているという別の安心感もある。
デンマークの隣の国のノルウェー出身の画家であるムンクは,強烈な不安を描いているが (エドヴァルド・ムンク - Wikipedia),ハンマースホイの描く不安は違ったものになっている。カール・ホルスーウとの対比で言えば,絵の中に漂う不安と,鑑賞者が画家と共通の感覚を持てていないという不安の両方を感じるが,強烈なものではない。やわらかいのである。やわらかさは安心を予感させるが,描かれているものからはあまり感じられない。この「やわらかな不安」という,相反した感覚の狭間をハンマースホイは描いているように感じられる。
絵の中に登場する人物のほとんどは奥さんのイーダである。しかし,こちらに背中を向けている作品が多い。後姿の綺麗な女性なのだ。それは確かである。しかし,なぜあんなにも,やつれてしまったのだろうか。奥さんの表情を描いた作品があるのだが (「イーダ・ハンマースホイの肖像」(1907年,アロス・オーフース美術館)),あまりに酷いやつれ具合に,目を向けられないほどなのだ。読書家で,楽器も弾く人なのに,なぜそこまでなってしまったのか。妹のアナは,デビュー作では美しく描かれているのに (「若い女性の肖像,画家の妹アナ・ハンマースホイ」(1885年,コペンハーゲン,ヒアシュプロング美術館)),3人の女性が椅子に座っている絵では,かなり変わってしまっている (「3人の若い女性」(1895年,リーベ美術館))。ハンマースホイの周りの女性は,ことごとくやつれ果ててしまうのか。
部屋の中にはほとんど何もない。小物として登場するのは,木のテーブル,ピアノ,ピアノの上のパンチボウル,ストーブである。パンチボウルとは,フルーツポンチを入れる「ポンチ」ボウルのことである。描かれている小物の数も少ないのに,さらにそこからテーブルの足を省略したりしている。部屋には窓ガラスと扉があるが,ドアノブが描かれていなかったり,蝶番が描かれていなかったりする。私は,この省略の技法をどう解釈すればよいのか分からなかった。作品に邪魔だったから省略をしたのか,省略することで新しく生まれる効果を描きたかったのか,どちらなのか分からない。それとも,もっと別の理由なのだろうか。
「室内,ピアノと黒いドレスの女性,ストランゲーゼ30番地 (1901年,コペンハーゲン,オードロプゴー美術館)」などでは,絵の中に「ピアノ」が描かれているが,形から見ると,チェンバロの仲間のヴァージナルか チェンバロ - Wikipedia),クラヴィコードだろう (クラヴィコード - Wikipedia)。チェンバロとクラヴィコードは発音機構の違いで区別される。チェンバロは弦を弾くが,クラヴィコードは弦を押すのである。
いくつかの作品で (例えば「白い扉、あるいは開いた扉」1905年,デーヴィズ・コレクション B309) (546_白い扉、あるいは開いた扉 - EARTH_blog - Yahoo!ジオシティーズ),縁に近い部分がゆがんでいるものがある。これは作品をキャンバスに貼り付ける際に,過度に引っ張ったために生じた歪みであるとのこと。美術館の解説によると,ハンマースホイは,大き目のキャンバスで絵を描き始め,そこから一部を切り取って額に収め,作品としたそうだ。やったのが本人なのか別の人なのかは不明だが,額に収めるときの扱いが雑過ぎる。
今回見た作品の中で,一番気に入ったのは「白い扉 (1888年,個人蔵)」という作品である。室内の風景だが,人は描かれていない。左側に黒いストーブがあり,中央の扉が開いていて,その向こう側に廊下を挟んで白い扉が見えている。
その他,印象に残ったのは,少し汚れている窓ガラスの表現が素晴らしいことだ。窓ガラスから外が見えるのだが,汚れのためにはっきりと見えない。窓ガラスが自分の存在を主張しているようでもある。「古代ギリシャ彫刻アフロディテ素描習作 (1880年頃,ニューヨーク,ジョン・L・ローブ・Jr大使コレクション)」もよかった。石膏のデッサンなのだが,石膏にすることで失われたプルプルの肉感が戻ってきている。
思わずジャムを購入してしまった。デンマーク製で1瓶1,050円。購入したのはワイルドブルーベリー。
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