他人と適度な距離を保つというのはかなり難しい。それは相手が,変な人であっても変な人でなくても同じである。
はてな匿名ダイアリーで「変な人に好かれる」という記事が書かれて話題になったのが今年の2月。今日はすでに4月の下旬で,反応としては遅すぎるのだが,思うところがあるので書き残しておくことにした。
私はそれほど他人に好かれる方ではないが,似たような経験がある。以下に図解する。
人はそれぞれ,他人に対する好き嫌いがある。好きな人には好意的に接するし,嫌いな人には違う態度をとる。ここでは,これを「他人に対する好意の範囲」と呼ぶことにする。心理的な距離である。
「好意の範囲」は人によって違う。「他人を寄せ付けない人」は,好意の範囲が極端に狭く,「平等な人」は広い。「平等な人」は,八方美人とか博愛主義者と言われることもある。
私に関して言えば,もともとの風貌が怖いといわれることもあり,どちらかというと「他人を寄せ付けない人」に属している。学生時代は,これを逆手にとって「近寄るな」という雰囲気を服装や髪型で打ち出していた。しかし,社会に出て仕事を始めてからは,「平等な人」を目指した。しかし,これは思ったよりも上手くいかなかった。多くの人は「相手が誰であるかによって大きく態度を変える」ということをしていたからだ。私が知らなかっただけで,相手によって態度を変えるのは「ごく普通」のことだったのだ。そして社会はこの「ごく普通」を基準にして動くものなのである。
「変な人」というのは,周りの人が距離をとるので,上の図のようになっている。これは第三者的な視点である。変な人の周りには「好意の範囲」が少ない。
上の図は,「変な人」の視点で,周りの人たちを見た場合である。人というのは皆,他人行儀であって,全員が「冷たい人」であるかのように見えるのである。
そんな中に「平等な人」がいた場合,「変な人」の目にはどう映るかと言えば,「とても好意的な人」に見えるのである。好かれていると勘違いするのも無理はない。
逆に「好かれる人」の場合はどうか。「変な人」に比べ,周りの人との心理的な距離が非常に近く感じられるはずである。上の図は第三者の視点。
「好かれる人」本人から見ると,周りは皆,好意的な人ばかりであるように思えるのだ。
「変な人に好かれる」には続きと後日談がある (変な人に好かれるの続き,変な人に好かれるのお礼)。
いろいろあった後に私はどうしたかというと,基本的には「平等な人」でいるが,好意を持たれそうになったらできる限りスルーしてやり過ごすようになった。しかし,これは万能ではなかった。相手が変な人の場合はこれでいいのだが,普通の可愛らしい女性の場合であっても,好意を持たれそうになったらスルーしてしまうのだ。その結果,実にもったいないことになってしまった。「あの時,美味しくいただいていれば…」というのが,下心的な本音の妄想である。それよりも,良心的な本音としては,好意を持ってくれた女性に対して,むしろ「無視してしまって申し訳ない」という気持ちと「きちんと説明しておけば」という後悔の念に塗りつぶされているのだった。
Posted by n at 2009-04-24 04:58 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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