自分の心の樹は自分の力で育てるものだが,枝をどのように伸ばしていいかは教えてもらわなければならない。
自分自身の心を1本の樹に例えてその構造を説明する試みの第2回。第1回は5年前であった (nlog(n): 愛は樹の幹のように - 真実はどこに?)。次回は5年後?
人は心の中に1本の樹を持っている。樹の幹や枝は愛情である。この樹は自分で育てていくものであるが,お手本がなければならない。枝を伸ばす方向が分からないからだ。そもそも,最初は,そこに枝が伸ばせるのか,枝とは何なのかも分からない。つまり,愛情というものは教えてもらう必要があるのだ。
抽象的なことを言っても伝わりにくいと思うので,体験を書いてみる。
私の母親は子供に対して愛情はあったのだろうが,その表現が子供には分かりにくかったのだろうと思う。母親は,「抱きしめる」とか「甘やかす」という分かりやすい愛情表現をしなかった。幼い頃の私は,そういう分かりやすい愛情が欲しいと思う気持ちはなかったが,大人になってからようやくそれが欲しかったことに気がついた。そして,30歳を過ぎてから,自分の誕生日に久しぶりに実家を訪れて「今日1日でいいから優しくしてくれ」と言ってみたが,通じなかった。「何言ってるの?」と言われて終了した。
私には3歳下の弟がいる。その弟が生まれたときに,弟が母親のおっぱいをあまりにも美味しそうに飲んでいるものだから,自分にも飲ませて欲しいと頼んでみた。すると,母親は自分の乳を搾ってガラスのコップに入れ,食卓の上に置いた。私は少し口をつけただけで,食卓の上に黙って戻した。私の欲しかったものはこんなものではない。そう思ったが,うまく表現できなかった。母親は「飲まないの? せっかく搾ったのに」と言った。これが私の一番古い記憶である。今でも,黒い食卓の上に置かれた真っ白な母乳の入ったコップをありありと思い出す。
私は,このように「分かりやすい愛情」を知らずに育ったわけだが,20歳を過ぎて「彼女」と呼べるような女性ができると,分かりやすい愛情というものを学ぶことになる。女性というものは,「身も心も丸裸になって,全てを相手にゆだねる瞬間」がある。私の恋愛は長続きすることはなかったが,どの女性にも少なくとも1回はそういう瞬間があった。これが愛というものか,とそのとき初めて分かったような気がして,胸が張り裂けそうになった。他人を愛すということを今までしてこなかったことも分かった。母親に抱きしめられたいという欲求は叶わなかったが,このときに恋人という女性に抱きしめられることによって満たされていった。その後,だんだんと他人を愛することができるようになっていった。実際のところ,本当に愛せているかは分からないのだが,少なくとも愛するまねごとはできるようになったことは確かである。
この経験で分かったのは,愛されたことがなければ愛すこともできないということである。つまり愛とは学ぶものなのだ。愛されれば,その方向に自分の枝を伸ばしていくことができるようになる。
友情というものがある。友情は,愛情のように強力ではないが,それでも自分の枝になることがある。友情は,接ぎ木{つぎき}のようなものなのだ。自分の幹につくこともあるが,失敗すれば枯れてしまう。接ぎ木を成功させるには,自分の幹も削らなければならない。痛みがともなう。しかし,上手くいけば自分になかった新しい世界が開けることになる。友情は,親子や男女の愛情とは違う形で,新しい自分を教えてくれる。接ぎ木が成功すれば,それはもう自分の一部になる (接ぎ木 - Wikipedia)。友人というのはありがたいもので,一度失敗しても何度もやり直してくれる。幸運なことに私にはそういう親身になってくれる友人が何人かいて,幾度かあった精神の危機を救われている。そんなことがかつてあったと思い出すと胸が熱くなる。
愛情のようでありながら愛情ではないものに「交換条件つきの愛情」がある。自分の何かと引き換えに,相手から愛情をもらう。テストで100点とったらお小遣いを上げてもらえるとか,いい子にしていたらご褒美を貰えるとか,そういう取り引きがくっついている。「お小遣い」や「ご褒美」は,もちろん愛情そのものではないけれど,愛情があることを表現するときに使われるアイテムである。しかし,何かを引き換えにするという条件がついていた場合,それは取り引きであるから,どちらかと言えばビジネスなのである。「交換条件つきの愛情」というのは「愛情」ではないということだ。自分の愛の樹を伸ばすには,その「愛」は「無償の愛」でなければならない。
交換条件つきの愛情は自分の身にはならないが,雰囲気は似ているので一時的には満足できる。「接ぎ木」ではなく,「切ってきた枝を縛り付けた状態」なのだ。切ってきた枝には生き生きとした葉がついているから,その場では満足できるが,やがて萎れてしまう。大人であれば,交換条件つきの愛情はクラブや風俗に行くことでも体験することができるし,そこで得られる擬似恋愛もひとつの楽しみとすることができる。使い分けできていれば,それはそれでいいのだ。分かっていれば。
難しいのは自分の子どもへの接し方である。本当に愛情を持って接しているのか不安になることがある。「いい子にしていたら何かいいことがあるかもよ」とか「いやなら外へ出ていなさい」などと,交換条件や脅迫じみたことをしてしまっている。「愛は無償であるべき」などということは綺麗ごとであって,すべてをそれで通せるわけではないのだ,とそのときは自分で言い聞かせるのが関の山である。自分で経験していないことは,自分で表現もできないのだ。自分は果たして自分の子どもに樹の枝のはり方を教えてあげられているのかさえ分からない。課題は多い。
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ムズイお題ですねぇ、これは。
私は19で家を出て以降、親、特に父親とは一年に0.5回くらいしか会ってないです。自分が冷酷なのか、でもそういう性格なのでしょうがないと現実を見ています。これは自分の子供が将来自分にすることになるのだろうと、心ひそかに覚悟を決めてもいます。
愛の定義は人それぞれ、胸に手を当てれば自分の人生の足音が聞こえます。誰でもこの足音が止まるのは時間の問題。いつ止まってもおかしくない…このことを常に理でなく感じ日々を送っています。弟が30の若さで他界しました。彼の人生の1.5倍を既にこの世の時間を享受していることが自分を苦しめます。
でもn氏こんな冷酷なる私でも、二十歳の時にn氏に出合い1,2年程のお互いの時間の交差点を頂いた身としては、n氏の影響を感受し、それはウチの3人の子供にも、とある形で受け継がれていると思うのですよ。愛は有償、無償とカテゴライズするべきではないと思うのです。相手を思う念と、その念を感受した個人とで、どちらかが各の個性に某かの新しい感受をたとえ刹那的にでも発した瞬間に愛の成立があるのだとも思うのです。もっと不安定で大きく振動している、それでいてリアプノフの安定状態にあるような…それが個人であり、また個人を電子に例えるならば、お互いがボーアの雲のはじっこを少しだけ重ね合わせることが愛の成就と定義したいのです。そこには電子同士で受け渡される素粒子の内容そのものではなく、よりマクロ的な視点でその二個の電子の空間的、時間的振る舞いのみでよいのではと。
あああ、結論!! 今度飲みましょう!!
Posted by: おお at February 20, 2010 07:41私もこのお話、じっくり訊きたいです。
Posted by: E姫 at February 20, 2010 11:09愛情ですか? 愛とは与えるもの? 受け取るもの?
Posted by: maro助 at February 20, 2010 21:58行って来いの場合 どっちが先なんでしょう?
親子の愛情! って事に限定するなら
親は 子供から愛を学ぶような気がします☆
無条件に 愛する!って・・・
子供の頃に 親に対して抱いていた感情ではないかと・・・ それがどっかで・・・
条件つけるのは 親ですもんね!
良い子にしてたら! 頑張ったら! 言う事聞いたら!
子供は 美味しいご飯作ったら! とか親に条件つけませんもんね☆
みなさんコメントありがとうございます。
おお さん
アメリカは遠いなぁ。インターネット経由で飲みますか。手酌になりますが。
E姫 さん
次回にご期待下さい。といっても,たいしたことないので期待しすぎにご注意ください。
maro助 さん
Posted by: n at February 21, 2010 22:37与えるのと受け取るのは同時だと思います。
「子供は 美味しいご飯作ったら! とか親に条件つけませんもんね☆」
子どもはそういう条件をつけてもいいのかも知れませんよ。やらないのは,教えられていないからでしょうね。