自分が ADD かも知れないという場合,自分のしがちな行動を第三者的に見直す必要がある。これには他人から見た意見が大いに参考になるはずである。
私は,未診断であるが ADD の疑いがある。ADD とは注意欠陥障害のことである (注意欠陥・多動性障害 - Wikipedia)。ADD は発達障害であり,やっかいなものではあるのだが,今後もつきあっていかなくてはならない (nlog(n): ADD の概要がつかめる「片づけられない女たち」)。ADD を性格の一部であると考えた場合,実際に ADD であるかどうかというのは大きな問題ではない。つまり,ADD だと診断で分かったところで何かの決着が着くわけではないのだ。それよりも,この面倒な性格をどう手懐けていくかを考える方が建設的である。
自分が ADD だとして,自身でできることの第一歩は,自分を知ることである。しかし,今までできるだけ目をそらしてきたことだけに,正視するのはかなり苦しい作業になる。自分でもある程度は分かっているが (nlog(n): ADD かも知れない),他人から見てどうなのかは分かっていない。
試しに,妻に「私のことで『こういうのは困った』ということあるか」聞いてみたところ,昨年にあった定額給付金の申し込みが締切間近になってしまったことを指摘された。間に合ったのだが,確かにぎりぎりだった。10月7日が締切で,申し込みは9月だったのだ。5月には用紙が届いていたから4か月間放置していたことになる。妻もこれにはハラハラしたらしい。そして今気がついたのだが,その定額給付金が振り込まれたのかどうかチェックしていなかった。チェックしていないということはお金にルーズ,期限ギリギリというのは時間にルーズということで,哀しいかな ADD の特徴である。
さて,期限ぎりぎりの指摘に対し,もちろんこれは私が指摘してくれと言ったから仕方なく言ってくれたことで発言の際にはまったく嫌味はなかったのであるが,それでも自分にとっては衝撃で,怒りの感情が湧いてきた。私は普段からあまり怒りの感情を出さないようにコントロールできているので,この突然の怒りには不思議な感じがした。自分で何度もやろうと思ってそれでもできないことだからだと思う。分かっていても腹が立ってしまう。分かっていても自分ではどうしようもない問題を,その悩みのない人間に指摘されるのは腹立たしいものだ。例えば男が女性に対して「生理の時って怒りっぽくなるよね」などと言う必要はないのと同じだ。例えそれが事実であっても,それを言って何になるのかということである。給付金の件について私はどうしていたのかというと,毎朝,その封筒を見て「明日以降にやろう」と思って先延ばし先延ばししていた。後から考えれば,必要事項を書いて,銀行の通帳のコピーを貼りつけて送るだけの作業なのだが,やる気が起きなかったのである。忘れていたわけではなく,毎日見ているのにできないのだ。自分でもわけがわからないという不思議な状態だったのである。「どうしてもできない」といっても,難しそうではないし,無理にやればいつでもできそうなのに,確かにやった後に振り返ってみれば簡単なことだと,自分自身でも思う。
なかなかできなかった理由を考えてみると,ひとつには期限までにまだ余裕があるということと,もうひとつは少し手間がかかり,さらには精神的なもやもやがあったからである。「手間がかかる」というのは,必要事項を記入することと通帳のコピーをとることである。通帳のコピーをとるには,パソコンを起動してスキャナを接続し通帳をセットして画像を取り込んだ後,印刷するという手間のことである。「精神的なもやもや」というのは,定額給付金がばらまき政治の一環であって,私自身がそれを好ましいと思っていないということがある。もし,ここで給付金をもらわなければそれは批判票のような役割を果たすのだろうかと考えたのである。たかが国民1家族がもらわなくても体制に影響はないかも知れない。しかしそれをいうなら選挙のときの1票の重みはこれと同等なはずではないか。そんなことを考えてみたものの,我が家の家計を考えれば大きな助けになることは間違いないのであり,バカなことを考えずにくれるというのだからもらっとけということで,もらうことにしたのである。
ともあれ,原因が何であれ,もし自分を変えたいと思うなら,今の自分を見つめることは絶対に必要であり,そのためには多少きつくても他人にひとつづつ指摘してもらうのは有効であると考えられる。自分の行動をできるだけ冷静に第三者的にとらえる第一歩である。
Posted by n at 2010-02-26 23:46 | Edit | Comments (0) | Trackback(0)
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