私は茶碗に盛られたご飯を最後の一粒まで残さず食べるようにしている。親からもそう教わった。そして今,自分の子にもそう教えている。
なぜご飯粒を残してはいけないのか? その理由は「食べ物に対する敬意」ということで説明できるのではないかと思う。同じようなことを5年前の今日も書いている (nlog(n): 「いただきます」は誰に?)。お米の大切さを教えるために,昔の世代の人は「残すと目がつぶれる」などと言った。「最後の一粒には神様がいる」という話も聞いたことがある。
親からそうせよと教えられ,そして自分が今度は親になった。今の時代,小さい子供に対して,ご飯粒の大切さを何と言って説明すればいいのだろうか。「目がつぶれる」はバイオレンス風味が強すぎる。「神様がいる」は具体性に欠ける。「どんな神様?」と聞かれたときに答えられないからだ。そこで,私は次のように説明することにしている。
ご飯粒ひとつぶ作るのにも1年かかるんだ。
この説明で,我が家の3歳児はまだ不思議そうな顔をしているが,5歳児は分かるようだ。4歳から5歳になるのに1年かかることが分かるようになったからなのかも知れない。
食料が乏しかった時代は,一粒が大きい意味を持っていた。貧乏ならば余計にその価値は大きかっただろう。しかし食べ物が余っている現代,ご飯粒ひとつぶは栄養的な価値には相対的に乏しくなった。したがって,ご飯粒を残さず食べるのは「貧乏かどうか」はもはや関係がない。一粒にこだわる人を見て「貧乏臭い」という思うのは時代遅れの感覚となった。
ご飯粒を大切にしたいというのは,ご飯粒と自分との個人的で精神的な関係がもとになっている。極端に言えば「自分の食べ物に対する思い」が全てである。その理由は,他人の残飯に対しては何も感じないということに表れている。他人の残飯まで食べようとは思わない。ただし,残飯を出したその人に対しては好感を持てない。「他人の持っている食べ物に対する思い」はどうでもいいが,「そんな思いを持っている他人」は好きになれないということである。
人間が食べ物に対して持てる関係は,物理的な関係と精神的な関係の2つである。物理的な関係は,食べ物を食べることによって栄養とエネルギーが得られるというもの。自分本位で動物的な考えで,この場合の食べ物は「エサ」と同じである。精神的な関係というのは食べ物が尊いと思う気持ちである。尊いという気持ちは,相手の立場に立って考えることができるということで,この場合は食べ物の立場に立つこと,どうやってその食べ物がここまで来たのかが想像できるということである。「ひと粒作るのにも1年」という考えはここから来ている。この場合の食べ物は「食事」になる。
食べ物を粗末にする人間は,食べ物を物理的なものとしか見ていない。つまり,自分本位の考えが強く,相手の立場に立って考えるのが苦手ということ,そう思われても仕方ない。
ご飯粒の一粒は取るに足らないものだが,ある一定以上集まれば,ご飯茶碗に盛られた立派なご飯になる。「ご飯粒」が何粒集まると「ご飯」になるのかの境界が分からないのでもどかしいが,「ご飯粒」であっても大切にしたいものである。
ちと説教臭いな。仕方ない。
蛇足: この「粒が何粒か集まると」で思い浮かぶのは選挙の話である。私は政治家が嫌いだ。選挙のときは「清き一票を」という割に,当選してしまうと一票のための政治をしないからだ。
2011年11月13日追記:
もっと簡単な理由がありました (nlog(n): ご飯粒を最後のひと粒まで食べるごく単純な理由)。
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